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伊東敬子さん(1943年生まれ)

 2015年12月1日、長崎の被爆者でつくる被爆者歌う会「ひまわり」は、6日に長崎市の浦上天主堂であるコンサートに向け、仕上げの練習をしていた。

 被爆70年の節目となった今年、ひまわりは例年以上に精力的に活動してきた。4~5月には米ニューヨークで開かれた核不拡散条約(NPT)再検討会議にあわせ、現地の高校やイベントで歌った。8月9日の平和祈念式典では、これまで通り、オープニングで歌った。そして10月には、ドイツでの公演。6日はそんな年の締めくくりの公演だ。

 これらのすべてに参加してきたメンバーの伊東敬子(いとうけいこ)さん(71)=長崎市=は本番で歌う時、目をつぶって前奏を聞く。被爆の時の惨状を想像し、気持ちを入れる。

 被爆時は1歳7カ月。当時の記憶はなく、写真でしか見たことのない光景だ。自分の見たものを語ることができないが、歌を通して少しでも平和や核兵器廃絶を願う輪が広がればと思って、歌い続けている。

 被爆当時のことは長年、家族の間でも話題になることはなかった。だが、母の満枝(みちえ)さん(97)が80代になり、記憶が薄れ始めたころから、「聞いておかなければ」と思うようになったという。私にも満枝さんから聞いた話を語ってくれた。

 伊東さん一家は現在の長崎市梁川町、梁川公園がある場所に住んでいた。近くには三菱の製鋼所などがあり、空襲時の防災・防火のため、1945年4月に建物疎開の対象となり、立ち退きを強いられた。祖父母と父六郎(ろくろう)さん、満枝さんの妹のおば3人は同市岩屋町に移ることとなった。

 同年8月9日、六郎さんやおばたちは仕事などに出かけていった。学徒動員先の工場に向かう予定だったおば2人は、道ノ尾の駅で「警報が出ているから帰った方がいい」と言われて自宅に戻ってきた。「汽車に乗っていたら、命はなかったかもしれません」と伊東さんは語る。

 8月9日午前11時2分。伊東さんは蚊帳の中で昼寝をしていたという。身重だった母の満枝さんが添い寝をしていた。そこに爆風が襲い、ガラスなどが散乱したという。満枝さんは伊東さんを連れ、おばや祖母とともに山へ避難したという。爆心地方向から逃げてくる人も大勢おり、満枝さんは皮膚が焼けただれている人や力なく歩く人たちを目撃していた。

 その日、祖父は長崎市竹の久保の畑の見回りに行っていた。爆心地方面だ。いつまでたっても帰ってこず、夕方、家族が捜しに行ったが、大橋や城山町付近は延々と燃え、その先に進むことはできなかった。翌日に竹の久保に行くことはできたが、祖父は遺体で見つかったという。

 身重の満枝さんは10月に妹を出産したが、すぐに亡くなった。「原因はわからないが、ものすごく弱かったみたいです。薬もなく、栄養状態も悪かったでしょうから」と伊東さんは話す。

 伊東さんは長崎市の城山小、淵中と被爆校に通った。城山小在学中には校門前に少年平和像ができ、今も歌い継がれる平和を願う歌「子らのみ魂(たま)よ」も歌った。小中学校時代を通して、周りで被爆者の話を聞く機会も多かった。だが、「自分は被爆者だ」と強く意識をすることはなかった。家族の中では原爆の話はタブーのようで、触れられることはなく、伊東さんから両親に尋ねることもなかった。

 大人になってからもそれは変わらなかった。中学校の教師となり、平和学習の時間にも、自身が被爆者だと話すことはなかった。「言いたくない。何か聞かれても正確なことはわからないから」と振り返る。在職中はあまり考える余裕もなかった。

 だが、2人の子育てが一段落す…

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