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中尾圭一さん(1939年生まれ)

 2015年9月下旬。長崎くんちを取材していた私は、この年の踊町(おどりちょう)の一つだった長崎市金屋町の自治会長、中尾圭一(なかおけいいち)さん(76)と話をしていた。金屋町は新作の踊りを奉納した。何度か話を伺った中尾さんが原爆を体験していると知ったのは、踊りのリハーサル後に年齢を確認したときだった。70歳を超えていたので、ふと「原爆の時から町内にいたんですか」と尋ねると、中尾さんは「疎開先の道ノ尾から海水浴に行く途中だった。そりゃすごかった」と答えた。

 それまでの取材で、中尾さんは町の将来を見すえ、並々ならぬ思いを持ってくんちに取り組んでいると感じていた。長年にわたって金屋町で暮らし、焼け野原になった町の復興を見守り、現在は自治会長としてくんちに関わっている。中尾さんが当時、どんな体験をしたのか、ぜひ聞いてみたいと思った。くんちの片付けがようやく一息ついた12月、中尾さんの体験や、母から聞いたという話を聞かせていただいた。

 中尾さんは現在の長崎市立図書館の近く、当時の長崎市興善町(現在の金屋町)で生まれた。ただ、「元々、家は図書館のある場所にあった」と話す。

 市立図書館がある場所には戦時中、新興善国民学校があり、原爆投下直後から臨時の救護病院になった。前身は昭和の初めにできた新興善尋常小学校だ。母から聞いた話によると、江戸時代から暮らしていた家のあった土地を小学校建設のために市に譲り、立ち退いたという。

 1944年8月から長崎市内への空襲が始まり、市中心部では11月から疎開が本格化した。「毎日毎晩のように空襲警報が鳴り響いていた」と語る。いつでも逃げられるように靴を履いたまま寝ていたことを覚えている。防空壕(ごう)は諏訪神社の近くにあったが、子どもの足で逃げ込むには距離があり、いつも満杯になっていたため、両親と妹弟の一家5人は市中心部から北へ6キロ離れた道ノ尾駅の近くに疎開した。

 45年8月9日は、よく晴れた暑い日だった。時津村(現在の時津町)に住む伯父が前日の8日に道ノ尾の疎開先の家に立ち寄り、「暑かね、明日にも泳ぎに来ないか」と声をかけてくれたので、中尾さんは9日の朝から母と弟、妹の4人で、道ノ尾から北の時津方面へ海水浴に向かった。

 生まれて初めての海水浴になるはずだった。それまで、砂浜も見たことがなかった。遊び盛りだったが、当時は娯楽がほとんどなかった。日々の生活では食糧も十分になく、ジャガイモとカボチャがごちそうだった。「当時は生きていくのに必死だった。そりゃうれしかった」と、海水浴に向かった当時の心境を振り返る。

 当時、長崎市大橋町の三菱の関連会社に動員されていた父はこの日、仕事が休みだったが、「終わったら行くけん」と言って、朝から会社の自転車を返しに大橋町へ向かった。海水浴に向かった家族とは、時津で合流する予定だったという。

 中尾さんは母と妹弟の4人で、疎開先の道ノ尾から時津の伯父の家に、海水浴をしに行った。道ノ尾を出発して間もなく。飛行機のブーンという音が聞こえ、長崎市中心部へ向かうのが見えた。攻撃を避けるため、近くにあった深さ50センチほどの溝に身を隠した。

 母が持っていた日傘を開くやいなや、ピカーッと光った。続いてドーンという音が響き、目の前をこぶし大ほどの石が、ものすごい速さで吹き飛ばされていくのが見えた。母の傘は台風のときのように吹き飛ばされ、骨だけになった。「何が起こっているのかさっぱりわからなかった」と当時のことを振り返る。

 続く攻撃を避けようと、砂煙がまだ舞う中を、母に連れられ近くの山の中に逃げた。爆風でけがはしなかったが、山の中で蚊に刺された痕や、山中を移動するときにできたひっかき傷が、栄養失調気味だったからか、なかなか治らなかったことを覚えている。

 原爆投下後も敵機の攻撃から逃げるため、母と山の中に隠れた中尾さんは、8月9日のうちに時津の伯父の家にたどり着き、1泊した。9日の夜、爆心地がある南側を見ると、街が真っ赤に燃えている様子が見えた。翌10日の朝に道ノ尾の疎開先に戻るときも、あちこちから真っ黒な煙が立ち上っていた光景を覚えている。長崎原爆戦災誌によると、道ノ尾地区では爆死者こそいなかったが、わらぶきの家屋10軒ほどが焼け、田や畑でやけどをした人もいたという。

 道ノ尾の疎開先の家に戻ると、中を見て驚いた。四方八方にガラスの破片が飛び散り、そこら中に突き刺さっていた。「家の中にいたら体中に刺さって死んでいただろう」と思った。その日は昼から畳をはずして外に出し、板の間に毛布を広げて寝た。勤め先の長崎市大橋町へ向かった父が気になったが、伯父から浦上の工場あたりに爆弾が落とされたと聞き、母とは「(父は)もうおらんかもしれんね」という話をした。

 原爆投下翌日の8月10日。中尾さんは伯父に連れられ、リヤカーを押して道ノ尾駅に向かっていた。9日に当時の長崎市大橋町にあった三菱の関連会社に向かった父が、道ノ尾駅にいると、疎開先の家に知らせてくれた人がいたのだった。

 駅で見た光景は「地獄と一緒だった」と語る。広場は負傷者であふれ、焼けこげたような、いやなにおいがした。負傷者は体が焼けて皮膚が垂れ下がったり、ガラスの破片が突き刺さったり、髪が焼けたり抜けたりして性別も分からない。近くの川に頭を入れたままこと切れている人もいた。

 長崎原爆戦災誌によると、道ノ…

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