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遠藤晴雄さん(1928年生まれ)

 広い空と海との境に、水平線が途切れることなく続く。開放感が心地よい太平洋に面した宮崎県の海岸沿い、宮崎市南部に内海という小さな港町がある。

 1945年8月、遠藤晴雄(えんどうはるお)さん(87)=長崎市=はこの内海で、水平線の向こうから来る米軍に備えていた。所属していたのは海軍の第33突撃隊。内海には、特攻兵器である人間魚雷「回天」が配備され、出撃を待っている状態だった。遠藤さんは回天への搭乗を希望していたという。「いつ死んでもよか、という覚悟だった」と語る。

 だが、内海からは回天が出撃することはなく終戦を迎えた。「まだやりたかった。悔しかったですから」。部隊は8月15日の当日に解散した。

 すでに、両親の暮らす故郷・長崎が新型爆弾でやられたとのうわさが流れてきていた。数日かけて長崎に到着し、焼け野原となった街を両親を捜して歩き、入市被爆をすることになる。

 遠藤さんは、長崎市東中町(現在の同市上町)で育った。志願して、15歳の時に海軍に入隊した。「おじの敵討ちをしたかった」という理由だ。

 遠藤さんの母の弟であるおじは現在の熊本県山鹿市に住んでいたが、長崎にも時々来て、幼い遠藤さんをかわいがってくれた。一緒に風呂に入って、背中を流してくれることもあった。だが、その後、おじは海軍に入り、戦死した。遺体は帰って来ることはなかった。

 長崎を離れる際、義理の兄と酒を酌み交わした。「軍隊に入れば一人前だった」

 入隊時に与えられた番号は今も忘れられない。「佐志機」の3文字に続いて、5桁の数字がつく。文字は「佐世保鎮守府」「志願」「機関兵」を意味する。最初は、新兵を教育する相浦海兵団(佐世保市)に入った。古い軍艦で石炭をくべる練習などをしていたという。佐世保海兵団をへて、配属されたのが第33突撃隊だった。

 遠藤さんが配属された第33突撃隊は、特攻作戦の任務が与えられていた。「人間魚雷」と呼ばれた「回天」や、特攻用のモーターボート「震洋」が配備された。戦時中の日本軍の作戦をまとめた戦史叢書(そうしょ)によると、終戦時点で回天は34隻、震洋は100隻があったという。

 こうした特攻隊の配備は、米軍の上陸に備えるものだった。米軍は太平洋戦争末期、南九州の海岸から上陸する「オリンピック作戦」を立てた。そのため、宮崎や鹿児島に特攻隊が次々とできていった。

 第33突撃隊の拠点は宮崎県日南市油津にあった。現在、市内には特攻隊の歴史を伝える碑や回天の格納庫跡がある。油津港を訪れると、海岸沿いの道の脇に「人間魚雷回天震洋油津基地跡」と書かれた細長い看板が置いてあった。

 遠藤さんも一時期、油津に滞在し、その後、宮崎市(当時は青島村)の内海での任務につくことになった。

 遠藤さんが戦争末期にいた宮崎市内海を訪れた。歩いていると、海岸を走る国道沿いに「人間魚雷回天内海基地跡」と書かれた看板があった。近所の人によると、ここから山を登った先に回天の基地があった。横穴の壕(ごう)が掘られ、6隻の回天が納められていたという。看板から少し登ると、戦後に敷かれたという日南線の線路があり、それ以上は進めなかった。

 この地区に住む鬼束菊一さん(86)は当時のことを覚えている。兵隊は100人ほどいた。そのうち一人は遠藤さんだったのだろう。鬼束さんは消防団員で、顔見知りの兵隊もいたという。

 45年7月に回天が配備された時は、鬼束さんも、丘の上の基地に運ぶのを手伝った。大きな潜水艦で近くまで運んできた。回天があった山から海までは、出撃の際、回天を海に運ぶためのレールも敷かれていた。終戦後は「ばらして海に沈めた」という。

 宮崎・内海で人間魚雷「回天」が配備された部隊にいた遠藤さん。終戦前の空襲のことが今も目に焼き付いている。

 米軍の戦闘機が機銃掃射をしてきた。顔が見えるほど近くまで降りてきて攻撃してきた。「弾が見えっとですよ。びゅっと。もうすごかったですね」と語る。

 遠藤さんは逃げ遅れた。だが、…

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