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加地英夫さん(1932年生まれ)

 「自分の人生を振り返る1年になった。年の締めくくりに本が完成してうれしい」。加地英夫(かじひでお)さん(83)=長崎市ダイヤランド3丁目=は2015年12月に出版した「私の軍艦島記」(長崎文献社)を手に言った。

 昨年7月に「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産に登録された端島炭坑(軍艦島)で生まれ育ち、閉山まで23年間、炭鉱で働いた。「世界遺産の登録が実現するか、期待に胸を膨らませて始まった2015年だった」と振り返る。登録の前後は取材を受けるなど多忙を極めた。閉山で離れたふるさとに、昨年は7回も行った。

 加地さんは旧制中学に通っていた1945年8月9日、爆心地から1・75キロで路面電車に乗っていて被爆した。これまで、被爆のことを話したり、書いたりしたことはあまりなかったが、「原爆のことを知っている人がどんどん少なくなっている。私の経験を後世にきちっと残したい」という気持ちになったという。幼稚園から同級生だった端島出身の2人の友人が原爆の犠牲になり、70年経っても、被爆したときの状況がわからないままになっていることも記録しておきたかった。

 そこで、自分の人生をたどる形で、端島での暮らしや被爆体験をまとめた本を出すことにした。文献を探したり、端島の先輩を訪ねたりして資料を集めた。「生まれてからのありのままを書いた。自分の人生の記録が歴史になるとは思わなかった」とはにかむ。

 本の冒頭にメッセージを寄せた田上富久・長崎市長に出版を報告した。田上市長からは「端島で人が暮らしていた頃の様子もリアルにわかる。この本をきっかけに、端島に興味を持ってくれる人が増えたらいいですね」と励まされた。

 加地さんは「原爆には遭ったけど、楽しく一生懸命に生きてきた。ふるさとが世界遺産として認められ、人生に誇りを持てた1年になった」と話す。

 加地さんは、三菱高島砿業所端島坑の従業員で船頭だった父・津代次(つよじ)さんと母・喜代(きよ)さんの6番目の子ども。男女4人ずつの8人きょうだいだ。加地さんが生まれた時、長男竹夫(たけお)さんはすでに独立して長崎市内で働いていた。そのため、両親ときょうだい7人が長く一つ屋根の下で暮らした。

 島内の幼稚園に通い、高浜村立端島尋常小学校に入学した。小さい頃の遊びはハタ揚げやビー玉、メンコなど。端島にも、おもちゃを売る商店があり、遊び道具は充実していたという。小学生くらいになると、男の子たちはこぞってトンカチを使ってベニヤ板を組み立て、糸をかけたおもちゃを作った。父親たちが働く炭鉱で、石炭を船に積み込むクレーンをまねたものだった。

 学校の遠足では船で長崎市に渡り、小ケ倉水源地や諏訪公園に行った。端島にはなかった自動車が通ると、駆け寄って排ガスのにおいを吸い込んだ。「いいにおいがする、って友だちと喜んだ」という。

 41年、加地さんが国民学校3年生の時に太平洋戦争が始まった。端島での暮らしやきょうだいの人生にも、次第に戦争の影響が出始めた。

 長兄の竹夫さんは中国東北部(旧満州)に出征。何度か端島の実家に帰ってきたが、加地さんは「軍服を着て刀を持ったあんち(兄さん)は怖かった。甘えるっていう雰囲気ではなかった」という。

 食べ物も配給制になった。人工島だった端島には、食料を補うために耕せる畑はなかった。木の板で作った箱に土を詰め、ベランダでネギやナス、キュウリなどを育てていた。「野菜は特に貴重。高浜にいた親戚がカボチャやジャガイモなどを運んで来てくれたことはとても助かった」という。

 廊下でニワトリを飼う家も多かった。加地さんの家も3、4羽飼い、卵を産ませていた。だが、食糧難になったある日、ついに食卓にそのニワトリが出た。かわいそうで、とても食べられなかった。

 小学校は41年に国民学校になった。戦争は激しさを増し、エネルギー源の石炭の増産が国から命じられ、労働時間は1日12~15時間になった。加地さんの父津代次さんや会社勤めをしていた姉たちの帰りは遅くなったという。

 島の青年たちが軍隊に召集されることも多くなり、加地さんたちも海岸から日の丸を振って見送った。時には、戦死した「英霊」を最敬礼して出迎えたこともあった。

 学校でも島内の映画館「昭和館」で戦争映画を鑑賞する日があった。映画では日本軍はいつも勇ましく、必ず勝利した。学校の講堂にはご真影があり、大事な時にだけ扉が開けられ、深々と礼をしたという。「教育で『神国日本』『国のために尽くせ』とたたき込まれた」と振り返る。

 加地さんもすっかり軍国少年となり、飛行機の模型を飛ばして遊びながら「将来は予科練に行って、飛行機乗りになってアメリカをやっつけてやる」と思っていたという。

 45年春、加地さんは旧制県立瓊浦中学校に進学した。端島の実家を離れ、長崎市稲佐町にあった親戚の家に下宿することになった。瓊浦中には端島出身の上級生も多かったが、みな学徒動員されていて、学校で会うことはなかった。

 学校では軍事教練が週3回あった。教員を補助する先輩たちが寄せ集めたベニヤ板やがれきでアメリカ軍の戦車の模型を作った。加地さんたちは、それに向かってほふく前進し、潜り込んで爆薬を仕掛ける訓練を繰り返したという。

 英語の授業もあったが、当時は「戦争で勝ったあと、アメリカ人にいろいろと教えてやらないといけないから、敵国語も話せないといけないんだな」と思っていた。「まさか戦争に負けるなんて思ってもみなかった」と振り返る。

 空襲が激しくなった8月、大浦の下宿に移った。稲佐から一緒に登下校していた友だちは被爆し、首にケロイドが残った。

 8月9日午前、加地さんたち瓊浦中1年生は竹の久保にあった校舎で期末考査最終日の英語の試験を受けた。大浦の下宿に帰ろうと乗った路面電車が稲佐橋の近くで停車。トロリー線の故障のようで、はしごに登っている作業員の姿が見えた。

 しばらく車内で運転再開を待っていると、飛行機のエンジン音が次第に近づくのが聞こえた。長崎駅か近くのガスタンクへの攻撃を警戒し、少し身構えた。

 その瞬間、前後左右からピカーッと黄白色の閃光(せんこう)に照らされた。左のほおに異常な熱さも感じ、しゃがみ込んだ。今度はドッカーンという爆音がし、路面電車のガラスが割れて頭や背中に飛んだ。

 辺りは薄暗くなった。「とにかく山に逃げよう」と電車から飛び降りて走りだすと、道の左右にある家がゆらゆらと揺れた。あっちでもこっちでもばたばたと倒壊し、視界が悪くなった。後ろを振り返ると、乗っていた路面電車からはもう火が上がっていた。

 路面電車の中で被爆した加地さ…

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