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江口淳二さん(1926年生まれ)

 長崎県内の学生らが企画し、長崎大坂本キャンパス(長崎市)で1月にあった映画「母と暮せば」公開記念企画展で、被爆者5人の体験が紹介された。同大で被爆した人や今の学生と同年代だった人たちだ。企画にあわせて学生たちが聞き取りをした。

 そのなかに諫早市の江口淳二(えぐちじゅんじ)さん(89)の体験もあった。長崎市平戸小屋町(現・丸尾町)の三菱電機で被爆したこと、対岸から同市五島町の家付近が焼けるのを見ていたこと、救護隊にいて幾人もの遺体を焼いたこと。「人の命は鴻毛(こうもう)(おおとりの羽毛)よりも軽い」という言葉が当時の状況を示す。

 江口さんは、こうした体験を公に語ることはなかった。だが、近年、次世代の人たちに求められ、過酷な体験を語るようになった。私も話を聴かせてもらい、同時に、江口さんの話に耳を傾けた人たちにも取材した。被爆70年が過ぎた今、声が小さくなっていく被爆者の体験から何を学べるのか、改めて考えたいと思う。

 江口さんは1926年、長崎市五島町に生まれた。この年、大正から昭和に元号が変わった。きょうだい6人の末っ子。父は、長崎から遠洋漁業に出る船に食料や日用品を納入する仕事をしていたという。

 新興善尋常小学校(現在の市立図書館がある場所)に通った。当時の思い出を尋ねると、「ドッジボール」と返ってきた。それを聞き、思わず一度聞き直した。34歳の自分が過ごした小学校時代と同じ遊びをしていたとは思わなかったからだ。学校対抗戦があり、新興善は強かったという。4年の時にコンクリートの新しい校舎ができたが、それまでの工事現場も遊び場にしていたという。

 長崎大であった企画展では、小学生のときに、くんちのお上りに出た時の江口さんの写真も展示された。五島町が年番町で、旗持ちの稚児として参加したという。ちょうど、私が仕事をしている同市万才町の朝日新聞長崎総局のあるそばを通ったと聞き、身近に感じた。

 企画展では、江口さんの子どもの頃の思い出として、バナナのたたき売りが紹介されていた。節をつけて歌うのを聞き、今もまねできるという。聞き取りをした長崎大医学部看護学専攻1年の柏原由紀乃(かしわばらゆきの)さん(19)はこの話を聞き、「子どもたちにも子どもらしさがあった。今と変わらないんだ」と思った。原爆の前に日常があり、それが奪われたことをひしひしと感じたという。

 私も江口さんにたたき売りの口上を聞かせてもらった。自宅のあった長崎市五島町に近い大波止でよく見ていたという。

 ♪このバナちゃん ふるさとは 遠く離れた 台湾台中 山の中……65銭が相場だが それでも買わにゃあ権八(58銭)で……

 次から次へ言葉が出てきて、聞いていて楽しい。江口さんも笑顔になった。

 一方で、教育勅語もそらんじる。当時の道徳の指針だが、軍国主義教育を推し進める効果もあった。「(何度も聞かされ)体で覚えさせられたから」と江口さんは語る。

 江口さんは39年、新興善尋常小学校から旧制県立瓊浦中(現在の長崎西高の場所)に進んだ。

 中学では英語の授業があった。41年12月に開戦し、「もう英語は使わんちゃよかぞ」と言うと、英語の先生に頭をたたかれ、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」と注意された。

 高学年の頃は工場や畑に動員され、作業をする時もあった。現在の長崎市香焼町にあった川南造船所に行くと、捕虜もいた。「話したらいけない」と言われたが、単語を書いてみたり、「生かじり」の英語で話してみたりした。捕虜は「アメリカは絶対勝つ。自分たちを迎えに来る」と話していた。

 卒業して、後に爆心地となる浦上地区に工場があった三菱兵器に入ろうと思い、面接を受けたが、採用されなかった。代わりに、モーターなどを製作していた三菱電機に入り、爆心地から2・8キロ離れた平戸小屋町の工場で働くことになった。

 三菱電機に就職した江口さんは基礎知識を学ぶため養成所に通い、検査課の職員となった。鋳物で造られるモーターの外殻が規格通りかどうかをチェックする仕事だった。「目さえ良ければできた」と振り返る。

 検査する品がなく仕事がない場合もあったといい、江口さんは時間がある時は工場のほかの部署によく行き、知り合いと話をしていたという。「課長が回ってくるときにおればいい」と冗談交じりで話す。

 45年8月9日もそうだった。検査部長の母親が亡くなったため、この日は部長も課長も長崎市城山方面にある部長宅に葬式に行っていた、と記憶している。工場の別の部署に行っているとき、稲妻のような光がぱっと光るのを感じて伏せた。何かの破片のようなものが飛んでくるのを感じた。

 工場から人がどんどん逃げてきて、江口さんも「踏まれるからいかんばい」と工場内にあった防空壕(ごう)に向かった。

 江口さんは三菱電機の救護隊に所属していた。稲妻を感じ、防空壕(ごう)に着くと隊長から腕章をつけるよう言われた。三つある壕の一つが救護所となった。江口さんは「救護隊は名前だけ。十字の印をつけていたけど、何もできやせん。(けが人を)運ぶだけ」と語る。

 午後4時か5時ごろ、長崎市五島町の自宅に戻ろうと思った。だが、稲佐橋はがれきが散乱していたため渡れなかった。

 自宅に帰るのを断念し、江口さんは工場に戻り、午後7時ごろに長崎港を挟んだ対岸を見た。すると、自宅あたりが燃えているのが見えた。「乾パンが燃えよるばい」。思い浮かんだのは、緊急時のため、自宅の床下の壕に保存してある乾パンのことだった。

 取材で、江口さんとともに現在…

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