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 障子の中(うち)で二絃琴の音がぱったりやむと、御師匠さんの声で「三毛や三毛や御飯だよ」と呼ぶ。三毛子は嬉しそうに「あら御師匠さんが呼んでいらっしゃるから、私(あた)し帰るわ、よくって?」わるいといったって仕方がない。「それじゃまた遊びにいらっしゃい」と鈴をちゃらちゃら鳴(なら)して庭先までかけて行ったが急に戻って来て「あなた大変色が悪くってよ。どうかしやしなくって」と心配そうに問いかける。まさか雑煮を食って踊りを踊ったともいわれないから「何別段の事もありませんが、少し考え事をしたら頭痛がしてね。あなたと話しでもしたら直るだろうと思って実は出掛けて来たのですよ」「そう。御大事になさいまし。さようなら」少しは名残(なご)り惜し気に見えた。これで雑煮の元気も薩張(さっぱ)りと回復した。いい心持になった。帰りに例の茶園を通り抜けようと思って霜柱の融(と)けかかったのを踏みつけながら建仁寺(けんにんじ)の崩(くず)れから顔を出すとまた車屋の黒が枯菊の上に脊を山にして欠伸(あくび)をしている。近頃は黒を見て恐怖するような吾輩ではないが、話しをされると面倒だから知らぬ顔をして行き過ぎようとした。黒の性質として他(ひと)が己(おの)れを軽侮したと認むるや否や決して黙っていない。「おい、名なしの権兵衛(ごんべえ)、近頃じゃ乙(おつ)う高く留ってるじゃあねえか。いくら教師の飯を食ったって、そんな高慢ちきな面(つ)らあするねえ。人つけ面白くもねえ」黒は吾輩の有名になったのを、まだ知らんと見える。説明して遣りたいが到底分る奴ではないから、先ず一応の挨拶をして出来得る限り早く御免(ごめん)蒙(こうむ)るに若(し)くはないと決心した。「いや黒君御目出度う。あいかわらず元気がいいね」と尻尾を立てて左へくるりと廻わす。黒は尻尾を立てたぎり挨拶もしない。「何御目出度え? 正月で御目出たけりゃ、御めえなんざあ年が年中御目出てえ方だろう。気をつけろい、この吹(ふ)い子(ご)の向(むこ)う面(づら)め」吹い子の向うづらという句は罵詈(ばり)の言語であるようだが、吾輩には了解が出来なかった。「ちょっと伺がうが吹い子の向うづらというのはどういう意味かね」「へん、手めえが悪体をつかれてるくせに、その訳を聞きゃ世話あねえ、だから正月野郎だって事よ」正月野郎は詩的であるが、その意味に至ると吹い子の何とかよりも一層不明瞭な文句である。参考のためちょっと聞いて置きたいが、聞いたって明瞭な答弁は得られぬに極まっているから、面と対(むか)ったまま無言で立っておった。聊(いささ)か手持無沙汰の体(てい)である。すると突然黒のうちの神さんが大きな声を張り揚げて「おや棚へ上げて置いた鮭(しゃけ)がない。大変だ。またあの黒の畜生(ちきしょう)が取ったんだよ。ほんとに憎らしい猫だっちゃあありゃあしない。今に帰って来たら、どうするか見ていやがれ」と怒鳴る。初春(はつはる)の長閑(のどか)な空気を無遠慮に震動させて、枝を鳴らさぬ君が御代(みよ)を大(おおい)に俗了してしまう。黒は怒鳴るなら、怒鳴りたいだけ怒鳴っていろといわぬばかりに横着な顔をして、四角な顋(あご)を前へ出しながら、あれを聞いたかと合図をする。今までは黒との応対で気がつかなかったが、見ると彼の足の下には一切れ二銭三厘に相当する鮭の骨が泥だらけになって転(ころ)がっている。「君あいかわらずやってるな」と今までの行き掛りは忘れて、つい感投詞を奉呈した。黒はその位な事ではなかなか機嫌を直さない。「何がやってるでえ、この野郎。しゃけの一切や二切で相変らずたあ何だ。人を見縊(みく)びった事をいうねえ。憚(はばか)りながら車屋の黒だあ」と腕まくりの代りに右の前足を逆(さ)かに肩の辺まで搔き上げた。「君が黒君だという事は、始めから知ってるさ」「知ってるのに、相変らずやってるたあ何だ。何だてえ事よ」と熱いのを頻りに吹き懸ける。人間なら胸倉をとられて小突き廻されるところである。少々辟易(へきえき)して内心困った事になったなと思っていると、再び例の神さんの大声が聞える。

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 【建仁寺】建仁寺垣の略。京都…

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