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深堀リンさん(1926年生まれ)

 被爆70年を迎えた昨年、長崎市在住の漫画家、西岡由香(にしおかゆか)さんが「被爆マリアの祈り 漫画で読む三人の被爆証言」(長崎文献社)を出版した。作品で取り上げられた1人、深堀(ふかほり)〈旧姓・野口〉リンさん(89)=長崎市高尾町=の体験は壮絶だ。

 爆心地から2キロほどの稲佐橋に近い長崎市稲佐町1丁目で被爆。旧時津村の自宅に戻る際、浦上川で水を求めて息絶えた無数の遺体の間を歩いた。翌日から手伝いにいった救護所では、全身にやけどを負って性別もわからなくなった人たちが、ひざをついて祈る姿を目撃したという。

 「つらい経験を思い出させるのは心苦しい。でも、当時すでに働いている年齢だった人の体験をうかがえる機会は大変貴重だ」と思い、西岡さんを通じて取材をお願いした。深堀さんからはすぐに「お役に立てるなら」と返事をいただいた。自宅を訪ねると、優しい笑顔と元気な姿で出迎えてくれた。

 深堀さんは1926年、時津村(現在の長崎市横尾3丁目)で生まれた。農業を営んでいた父の峯吉(みねきち)さんと母のセヲさんの次女。1男3女の3番目だった。幼いころの思い出はサーカスを見たこと。峯吉さんに連れられ、長崎まで行った。広場に設けられた大きなテントの中で綱渡りなどがあり、「びっくりしながら見た」という。

 33年、時津尋常高等小学校(現・時津小学校)に入学した。低学年のころは、友だちと縄跳びやかくれんぼをして遊んだ。だが、37年に日中戦争が始まり、学年が上がるにつれて、道ノ尾駅で出征する兵隊を見送ったり、なぎなたの練習をしたりする時間が増え、勉強どころではなくなった。

 出征兵士に持たせる千人針を頼まれることも多かった。深堀さんは寅(とら)年生まれ。トラは足が速く、鉄砲の弾に当たらないとして、普通はひとり一つのところを、年の数だけ縫った。戦果を挙げた夜は、ちょうちんを持って村中を練り歩き、お祝いムードだった。

 深堀さんが住んでいた時津村からも男性が相次いで出征し、10代だった深堀さんにとっても戦争は身近だった。「兵隊さんの役に立ちたい」と思い、看護師を志した。

 太平洋戦争が始まった41年、深堀さんは看護学校に入った。内臓の位置などをマネキンや絵で学んだ。43年に国家試験を受けたが、足のかかとに包帯を巻く実技で失敗し、不合格。深堀さんは「来年もう一度挑戦したい」と頼んだが、両親の反対で就職することになった。

 就職先は稲佐橋近くの長崎市稲佐町1丁目にあった鉄工所。魚雷の部品を造っていた。当時は近くの町工場のほとんどが軍需産業の下請けを担っていた。深堀さんは「みんなで戦争を応援していた」と振り返る。勤務先の工場長が、後に深堀さんの夫となる義朗(よしあき)さんだ。「まじめで好青年。ハンサムな人」と第一印象を語り、はにかんだ。

 深堀さんは太平洋戦争中の43年に入社した町工場の工場長、義朗さんと交際を始めた。自宅に遊びに行くと、マリア像と立派な祭壇があり、義朗さんがカトリック信者だと知った。当時はカトリックを「敵国の宗教」と嫌う人もいたが、深堀さんは修学旅行で浦上天主堂を訪れたことがあり、通勤の途中に聞こえる天主堂の鐘の音も好きだった。「今思うと夫に出会う前からご縁があったのかもね」

 義朗さんの母のシゲさんに連れられ、教会に行くこともあった。お祈りの仕方などはわからなかったが、シゲさんが「座っているだけでいいのよ」と優しく話しかけてくれて、安心できたという。モヤシやゴボウ、こんにゃくを甘く煮る伝統料理「浦上そぼろ」の作り方も教えてもらった。

 戦時中だったが、義朗さんとのデートは映画鑑賞が多かった。長崎市浜町にあった映画館によく通い、諫早市の轟の滝まで遠出したこともあったという。

 深堀さんと職場の町工場で出会った義朗さんは順調な交際を続けた。だが、43年12月ごろ、義朗さんに召集令状が届いた。「毎日、毎日、兵隊さんを見送っていた。いずれは義朗さんも、と思っていた。自分だけ特別とはいかないだろうって」と振り返る。町工場の工場長として技術があった義朗さんは、外地の戦場ではなく、千葉や埼玉で通信機などを修理することになった。

 出征の直前、義朗さんはカトリックの祈りの本を深堀さんに預けた。「僕の代わりに、できるところだけでもお祈りをしてくれ」。その言葉には、プロポーズの意味が込められていた。

 義朗さんの出征後、2人は文通を続けた。戦況に関わることは書けなかったが、家族の様子や「お体に気をつけて」などとお互いを思いやる気持ちを記して送った。深堀さんが慰問袋に手作りのお守りを入れて送ったこともあった。

 45年8月9日、深堀さんは道ノ尾駅から一緒に通勤していた友人と列車に乗った。空襲が激しくなった当時は仕事を休む人もいたが、友人は「リンさんが行くなら行く」と三菱長崎製鋼所(現在の長崎市茂里町付近)に向かい、原爆で全身に大やけどを負って亡くなった。深堀さんは「私が行くと言わなければ彼女は死なずにすんだかもしれない」と涙ながらに語った。

 午前10時ごろ、深堀さんが勤める町工場に三菱の経理担当者が書類の検査に来た。深堀さんが1時間ほど対応し、書類を棚に片付けていた。すると「初めて見る真っ赤な強い光に包まれた」。左腕に熱を感じ、手で押さえながら訓練通りに机の下に避難した。建物の下敷きになっていたところを同僚が助け出してくれた。爆心地から2キロほど。すぐに火が出て、町中が火の海になった。「経理担当者はきっと亡くなったと思う。紙一重で、私の身代わりになってくれたのかもしれない」

 倒壊した建物から助け出された…

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