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熊弘人さん(1933年生まれ)・喜美子さん(1934年生まれ)

 もし、あの時――。ともに被爆者の熊弘人(くまひろと)さん(83)、喜美子(きみこ)さん(81)夫妻=長崎市=はそれぞれ、そんな運命の分かれ目を感じる体験をした。

 夫の弘人さんは被爆時、旧制中学1年だった。県立瓊浦中に行きたかったが、教師の勧めで長崎市東山手町にあった長崎東陵中(現・長崎南山中高)に進んだ。爆心地から800メートルにあった瓊浦中に進んでいたら命はなかったかもしれない、と思っている。

 被爆当時、国民学校5年だった喜美子さんの「もし」は長兄のことだ。長兄は当時、爆心地から1・1キロの市立商業学校(現・長崎商業高)に通い、付近の工場に動員されていた。原爆投下前日までは夜勤だったが、当日から日勤に変わった。喜美子さんは、1日ずれていて夜勤だったら原爆投下の時は爆心地から離れた自宅にいて兄は無事だったかもしれない、と思う。

 被爆当時はまだ出会っていなかった2人の体験を追ってみる。

 ともに被爆者の弘人さんと喜美子さん。弘人さんが生まれ育ったのは、現在の長崎市野母崎地区にあった高浜村だ。家は「普通の百姓です」と語る。高浜村国民学校(後の高浜小、現在は統合し野母崎小)では、6年間無遅刻無欠席とまじめな子だった。

 一方、2学年下の喜美子さんは長崎市新大工町の商店街で育った。今もある「天満市場」で、父は魚屋を営んでいた。乾物屋、総菜屋、肉屋などが並んでいたことを覚えている。「朝早いうちは競りの声が聞こえてきましたね」。競りが終わると、その場は子どもたちの遊び場になった。だが、太平洋戦争が始まり、伊良林国民学校(現・伊良林小)2年の頃には、同市愛宕町に引っ越した。

 「兄たちは1週間早く戸籍を入れたんです」と喜美子さんは言う。兵隊に一日でも早く行けるようにするためだったという。「そういう教育を受けとったからね」と弘人さんが話すと、喜美子さんも「国のために命を落としてもいいっていうね」と続けた。

 弘人さんは高浜村国民学校から長崎東陵中に進んだ。長崎市東山手町の海星中高の場所にあった学校だ。県立瓊浦中に行きたかったが、先生に「東陵に行きなさい」と言われたからだ。国民学校を卒業するまで6年間休んだことがなかった弘人さん。瓊浦中に行っていれば、その日も爆心地から800メートルの学校にいて助かっていないかもしれないと思う。中学では授業はあまりなかったという。「色々作業させられた。防空壕(ごう)掘りが多かった」という。

 その頃、喜美子さんは小島国民学校(現・小島小)に通っていた。市立商業学校に通っていて、後に動員先の工場で被爆して亡くなった長兄は海軍飛行予科練習生(予科練)をめざしたが、身長が足りなかったという。多くの予科練生が特攻隊で出撃し、命を落としたが、すでに戦争末期だったため、喜美子さんは「兄が行っていたとしても(出撃せずにすんで)助かったと思う」。

 1945年8月9日、弘人さん…

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