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 早朝6時すぎ、青木宣親(34)は、米アリゾナ州ピオリアの室内練習場で、黙々とバットを振っていた。今季加入したシアトル・マリナーズの春季キャンプ。この土地は、3月といえども、日中は30度を超す。強い日差しが照りつける前の早朝は個人練習の貴重な時間だ。「一通り終わっても、まだ8時だったり。何か得した気分になるでしょ」

 全体練習は午前中で終わる。渡米5年目。自分に向き合う時間は自分で作ってきた。「オープン戦で課題を探して、それをつぶしていく。結局、その繰り返しだけだと思うんです」。日本にいた時は長かった髪も短くした。思考もどんどんシンプルになっているようだ。

 大切にしている言葉がある。「突き詰める」。2年前のシーズン中、現マイアミ・マーリンズであこがれのイチロー(42)と食事をした際に授かった言葉だ。どうしたら打てるのか。打てなければ、その原因を解き明かせるのがプロだ。自分の野球人生の命題に出合った気がした。

 大学、日本のプロ野球、そして大リーグ。いつも後方からのスタートだった。だからこそ、考える癖が身についた。目標やライバルとの距離を正確に測り、近づくには何をどうすればいいか。その反復で、宮崎の野球少年は大リーガーになった。

宮崎から上京、最初の一歩

 宮崎県立日向高校時代の青木は投手だった。甲子園には出ていない。テレビで見てユニホームにあこがれた早稲田大学には、指定校推薦で合格した。肩の強さと足には自信がある。外野手で勝負するつもりだった。ただし、宮崎の高校から東京六大学リーグで活躍した前例は多くなかった。恩師の森純雄(57)の見立ても「代走なら何とか出られるんじゃないか」だった。

 同期に現阪神の鳥谷敬がいた。「青木は野生児のようで、粗削りでした」。後に広島入りする比嘉寿光が振り返る。この学年は卒業後に4人をプロに送り出すが、その中でも青木の素質は光っていた。一方で、強豪校出身者のようには、野球を教え込まれていなかった。外野から内野へのカットプレーの練習で、どこに投げていいか分からない。たまに試合に出れば、目立つところで走塁ミスをした。

 練習に耐えられる体力もなかった。それでウェートトレーニングに走ったら、ケガをした。また考えた。柔軟性も必要だろう。ジムを紹介してもらい、ストレッチ法を学んだ。練習では監督の野村徹(79)に雷を落とされてばかりだったが、教えをうのみにはしなかった。

 青木は言う。「僕は野球の常識を知らなかった。だから、何をするにも疑問を持っていた」。野球にはセオリーがある。だけどこうも思っていた。「教科書通りでうまくなるなら全員がうまくなる。合う、合わないは絶対にあるはずだ」

 2年秋のリーグ戦を終えると、青木は野球部寮に入る。入寮を許されるのはベンチ入りする25人だけ。鳥谷や比嘉は入学時から寮生だ。青木と同じタイミングで寮住まいになった同期に竹内智一がいる。選手ではなく、将来の指導者をめざす学生コーチだった。以降、青木の夜間練習には竹内が付き合った。

 青木は時計を気にしなかった。2人でティー打撃を続け、気付くと午前0時を回っていることが何度もあった。竹内が布団に入った後、青木が部屋に来て「明日対戦する投手のビデオを見よう」と言う日もあった。「同じくらいの素質の選手はいたと思うんです。でも、青木は姿勢が人と違った」。母校の神奈川・鎌倉学園高校で野球部監督になった竹内は、青木のことを生徒たちに繰り返し話す。

 3年春、青木は2番打者に定着した。俊足を生かすため、野村は逆方向の左翼へ低い打球を打てと指導した。が、練習中に目を離すと、青木は右翼に向かってフルスイングした。小さな型にはめられる気がして、反発心があったのだ。レギュラーとして初のリーグ戦は、プロ入りを考えれば物足りない成績で終わった。

 大学生にとって3年秋のリーグ戦は、卒業後の進路を左右する。青木は考え方を変えた。「自分の考えでやって結果が出なかった。だったら、監督の言うことを聞いてみよう」。長打を捨て、ゴロを転がして全力で走った。やると決めれば徹底した。打率4割3分6厘。堂々の首位打者に輝き、プロへの道が開けた。

古田に教え請い200安打

 この成功体験は、次のステージ…

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