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 高知県香美市の詩人で、中江兆民研究家でもある猪野睦(むつし)さん(84)は、中江の偉大さを「思想山脈」と表現する。

 「それまで日本になかった自由・民主主義をフランスから持ち帰り、広めようとしました。政府はつぶしにかかりましたが、敗戦後、国民の前にその姿を現したと言えるでしょう」

 猪野さんによると、中江は、高知市のはりまや橋近くに生まれた。武士のなかでも最も身分の低い足軽の出身。長崎と江戸で学び、留学を志したが、土佐藩では上士や明治維新の戊辰戦争で貢献した者が優先された。明治政府の中心人物で薩摩藩出身の大久保利通に直訴し、フランス行きをかなえた。

 約2年半の間、労働者の町リヨンで「自由・平等・博愛」の空気に触れた。帰国途中、ベトナムに立ち寄り、西洋人がアジアの人々を虐げる様子を目の当たりにした。こうした経験が「小国家論」につながる。

 それは明治政府が進めた大国化への異議だった。

 外交政策を論じた「論外交」(自由新聞、1882年)で、戦争は道義的に認められないと否定したうえで、小国が大国になっても国を保てないと富国強兵策を批判した。そして「小国は信義に基づく外交に徹せよ」「隣国には兵力で干渉すべきではない」などと主張した。

 高知市立自由民権記念館の前館長、松岡僖一さん(70)は解説する。

 「大国を目指せば、税負担など国民の犠牲は大きくなります。国が小さければ小さいほど民主化は進み、人権が守られるという考えだったんですね」

 87年12月、他の民権家600人近くとともに皇居の約12キロ外への退去を命じられた。大阪に移った後、高知県馬路(うまじ)村を訪れた時も、尾行の密偵が険しい山道までつきまとったという。死後も、昭和の敗戦まで、限られた著作しか出版されなかった。

 与えられた権利は、与えた者の都合でいつか返さなければいけなくなる。そんな考えから明治憲法改正をめざし、最初の帝国議会選挙で大阪から立候補して当選した。民権派が過半数の議席を得たが、政府側に寝返る議員が出たため辞職する。

 末期がんで余命1年半と告げられた後、痛みや呼吸困難のなか「一年有半」「続一年有半」を出版した。伊藤博文や山県有朋らを「死ぬのが一日早ければ、一日国家の益となる」とこき下ろした。そして日本人をこう評した。「利害に明るく理義(道理と正義)に暗い。事に従うことを好み、考えることを好まない」

■新聞葬 弾圧へ…

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