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 「その次にね――出(い)づるかと思えば忽(たちま)ち消え、逝(ゆ)いては長(とこしな)えに帰るを忘るとありましたよ」細君は妙な顔をして「賞(ほ)めたんでしょうか」と心元ない調子である。「まあ賞めた方でしょうな」と迷亭は済ましてハンケチを吾輩の眼の前にぶら下げる。「書物は商買(しょうばい)道具で仕方も御座んすまいが、よっぽど偏屈でしてねえ」迷亭はまた別途の方面から来たなと思って「偏屈は少々偏屈ですね、学問をするものはどうせあんなですよ」と調子を合わせるような弁護をするような不即不離の妙答をする。「先達てなどは学校から帰ってすぐわきへ出るのに着物を着換えるのが面倒だものですから、あなた外套(がいとう)も脱がないで、机へ腰を掛けて御飯を食べるのです。御膳を火燵櫓(こたつやぐら)の上へ乗せまして――私は御櫃(おはち)を抱(かか)えて坐って見ておりましたが可笑(おか)しくって……」「何だかハイカラの首実検のようですな。しかしそんなところが苦沙弥君の苦沙弥君たるところで――とにかく月並でない」と切ない褒(ほ)め方をする。「月並か月並でないか女には分りませんが、なんぼ何でも、余(あ)まり乱暴ですわ」「しかし月並より好(い)いですよ」とむやみに加勢すると細君は不満な様子で「一体、月並々々と皆さんが、よく仰(おっし)ゃいますが、どんなのが月並なんです」と開き直って月並の定義を質問する、「月並ですか、月並というと――さようちと説明し悪(に)くいのですが……」「そんな曖昧(あいまい)なものなら月並だって好(よ)さそうなものじゃありませんか」と細君は女人一流の論理法で詰め寄せる。「曖昧じゃありませんよ、ちゃんと分っています、ただ説明し悪くいだけの事でさあ」「何でも自分の嫌いな事を月並というんでしょう」と細君は我知らず穿(うが)った事をいう。迷亭もこうなると何とか月並の処置を付けなければならぬ仕儀となる。「奥さん、月並というのはね、先ず年は二八か二九からぬと言わず語らず物思いの間に寐転(ねころ)んでいて、この日や天気晴朗とくると必ず一瓢を携えて墨堤に遊ぶ連中をいうんです」「そんな連中があるでしょうか」と細君は分らんものだから好加減(いいかげん)な挨拶をする。「何だかごたごたして私には分りませんわ」と遂に我を折る。「それじゃ馬琴(ばきん)の胴へメジョオ・ペンデニスの首をつけて一、二年欧洲の空気で包んで置くんですね」「そうすると月並が出来るでしょうか」迷亭は返事をしないで笑っている。「何そんな手数のかかる事をしないでも出来ます。中学校の生徒に白木屋(しろきや)の番頭を加えて二で割ると立派な月並が出来上ります」「そうでしょうか」と細君は首を捻(ひね)ったまま納得し兼(かね)たという風情(ふぜい)に見える。

 「君まだいるのか」と主人はいつの間にやら帰って来て迷亭の傍(そば)へ坐わる。「まだいるのかは些(ち)と酷だな、すぐ帰るから待ってい給えと言ったじゃないか」「万事あれなんですもの」と細君は迷亭を顧みる。「今君の留守中に君の逸話を残らず聞いてしまったぜ」「女はとかく多弁でいかん、人間もこの猫位沈黙を守るといいがな」と主人は吾輩の頭を撫(な)でてくれる。「君は赤ん坊に大根卸しを嘗めさしたそうだな」「ふむ」と主人は笑ったが「赤ん坊でも近頃の赤ん坊はなかなか利口だぜ。それ以来、坊や辛(から)いのはどこと聞くときっと舌を出すから妙だ」「まるで犬に芸を仕込む気でいるから残酷だ。時に寒月はもう来そうなものだな」「寒月が来るのかい」と主人は不審な顔をする。「来るんだ。午後一時までに苦沙弥の家(うち)へ来いと端書(はがき)を出して置いたから」「人の都合も聞かんで勝手な事をする男だ。寒月を呼んで何をするんだい」

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