[PR]

 鼻子は漸く納得してそろそろ質問を呈出する。一時荒立てた言葉使も迷亭に対してはまたもとの如く叮嚀になる、「寒月さんも理学士だそうですが、全体どんな事を専門にしているので御座います」「大学院では地球の磁気の研究をやっています」と主人が真面目に答える。不幸にしてその意味が鼻子には分らんものだから「へえー」とはいったが怪訝(けげん)な顔をしている。「それを勉強すると博士になれましょうか」と聞く。「博士にならなければ遣れないと仰っしゃるんですか」と主人は不愉快そうに尋ねる。「ええ。ただの学士じゃね、いくらでもありますからね」と鼻子は平気で答える。主人は迷亭を見ていよいよいやな顔をする。「博士になるかならんかは僕らも保証する事が出来んから、ほかの事を聞いて頂く事にしよう」と迷亭もあまり好い機嫌ではない。「近頃でもその地球の――何かを勉強しているんで御座いましょうか」「二、三日前は首縊りの力学という研究の結果を理学協会で演説しました」と主人は何の気も付かずにいう。「おやいやだ、首縊りだなんて、よっぽど変人ですねえ。そんな首縊りや何かやってたんじゃ、とても博士にはなれますまいね」「本人が首を縊っちゃあ六(む)ずかしいですが、首縊りの力学ならなれないとも限らんです」「そうでしょうか」と今度は主人の方を見て顔色を窺(うかが)う。悲しい事に力学という意味がわからんので落ち付き兼ねている。しかしこれしきの事を尋ねては金田夫人の面目に関すると思ってか、ただ相手の顔色で八卦(はっけ)を立てて見る。主人の顔は渋い。「その外になにか、分りやすいものを勉強しておりますまいか」「そうですな、先達て団栗のスタビリチーを論じて併せて天体の運行に及ぶという論文を書いた事があります」「団栗(どんぐり)なんぞでも大学校で勉強するものでしょうか」「さあ僕も素人(しろうと)だからよく分らんが、何しろ、寒月君がやる位なんだから、研究する価値があると見えますな」と迷亭は済まして冷かす。鼻子は学問上の質問は手に合わんと断念したものと見えて、今度は話頭を転ずる。「御話は違いますが――この御正月に椎茸(しいたけ)を食べて前歯を二枚折ったそうじゃ御座いませんか」「ええその欠けた所に空也餅(くうやもち)がくっ付いていましてね」と迷亭はこの質問こそわが縄張(なわばり)内(うち)だと急に浮かれ出す。「色気のない人じゃ御座いませんか、何だって楊子(ようじ)を使わないんでしょう」「今度逢ったら注意して置きましょう」と主人がくすくす笑う。「椎茸で歯がかける位じゃ、よほど歯の性(しょう)が悪いと思われますが、如何(いかが)なものでしょう」「善(い)いとは言われますまいな――ねえ迷亭」「善い事はないがちょっと愛嬌があるよ。あれぎり、まだ塡(つ)めないところが妙だ。今だに空也餅引掛所(ひっかけどころ)になってるなあ奇観だぜ」「歯を塡める小遣(こづかい)がないので欠(かけ)なりにして置くんですか、または物好きで欠けなりにして置くんでしょうか」「何も永く前歯欠成(かけなり)を名乗る訳でもないでしょうから御安心なさいよ」と迷亭の機嫌は段々回復してくる。鼻子はまた問題を改める。「何か御宅に手紙かなんぞ当人の書いたものでも御座いますならちょっと拝見したいもんで御座いますが」「端書(はがき)なら沢山あります、御覧なさい」と主人は書斎から三、四十枚持って来る。「そんなに沢山拝見しないでも――その内の二、三枚だけ……」「どれどれ僕が好いのを撰(よ)ってやろう」と迷亭先生は「これなざあ面白いでしょう」と一枚の絵葉書を出す。「おや絵もかくんで御座いますか、なかなか器用ですね、どれ拝見しましょう」と眺めていたが「あらいやだ、狸(たぬき)だよ。何だって撰(よ)りに撰って狸なんぞかくんでしょうね――それでも狸と見えるから不思議だよ」と少し感心する。「その文句を読んで御覧なさい」と主人が笑いながらいう。鼻子は下女が新聞を読むように読み出す。「旧暦の歳(とし)の夜(よ)、山の狸が園遊会をやって盛(さかん)に舞踏します。その歌に曰(いわ)く、来いさ、としの夜で、御山婦美(おやまふみ)も来(く)まいぞ。スッポコポンノポン」「何ですこりゃ、人を馬鹿にしているじゃ御座いませんか」と鼻子は不平の体(てい)である。

   …

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

980円で月300本まで有料記事を読めるお得なシンプルコースのお申し込みはこちら

こんなニュースも