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 「博士なんて到底駄目ですよ」と主人は細君にまで見離される。「これでも今になるかも知れん、軽蔑(けいべつ)するな。貴様なぞは知るまいが昔しアイソクラチスという人は九十四歳で大著述をした。ソフォクリスが傑作を出して天下を驚かしたのは、殆(ほと)んど百歳の高齢だった。シモニジスは八十で妙詩を作った。おれだって……」「馬鹿々々(ばかばか)しいわ、あなたのような胃病でそんなに永く生きられるものですか」と細君はちゃんと主人の寿命を予算している。「失敬な、――甘木さんへ行って聞いて見ろ――元来御前がこんな皺苦茶(しわくちゃ)な黒木綿(くろもめん)の羽織や、つぎだらけの着物を着せて置くから、あんな女に馬鹿にされるんだ。あしたから迷亭の着ているような奴を着るから出して置け」「出して置けって、あんな立派な御召(おめし)は御座んせんわ。金田の奥さんが迷亭さんに叮嚀になったのは、伯父さんの名前を聞いてからですよ。着物の咎(とが)じゃ御座いません」と細君うまく責任を逃(の)がれる。

 主人は伯父さんという言葉を聞いて急に思い出したように「君に伯父があるという事は、今日始めて聞いた。今までついに噂をした事がないじゃないか、本当にあるのかい」と迷亭に聞く。迷亭は待ってたといわぬばかりに「うんその伯父さ、その伯父が馬鹿に頑物(がんぶつ)でねえ――やはりその十九世紀から連綿と今日(こんにち)まで生き延びているんだがね」と主人夫婦を半々に見る。「オホホホホホ面白い事ばかり仰(おっし)ゃって、どこに生きていらっしゃるんです」「静岡に生きてますがね、それがただ生きてるんじゃないです。頭にちょん髷(まげ)を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子を被(かぶ)れってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子を被るほど寒さを感じた事はないと威張ってるんです――寒いから、もっと寐(ね)ていらっしゃいというと、人間は四時間寐れば充分だ、四時間以上寐るのは贅沢(ぜいたく)の沙汰だって朝暗いうちから起きてくるんです。それでね、おれも睡眠時間を四時間に縮めるには、永年修業をしたもんだ、若いうちはどうしても眠たくて行かなんだが、近頃に至って始めて随処任意の庶境に入(い)って甚(はなは)だ嬉しいと自慢するんです。六十七になって寐られなくなるなあ当り前でさあ。修業も糸瓜(へちま)も入ったものじゃないのに当人は全く克己の力で成功したと思ってるんですからね。それで外出する時には、きっと鉄扇(てっせん)をもって出るんですがね」「なににするんだい」「何にするんだか分らない、ただ持って出るんだね。まあステッキの代り位に考えてるかも知れんよ。ところが先達て妙な事がありましてね」と今度は細君の方へ話しかける。「へえー」と細君が差(さ)し合(あい)のない返事をする。「此年(ことし)の春突然手紙を寄こして山高(やまたか)帽子とフロックコートを至急送れというんです。ちょっと驚ろいたから、郵便で問い返したところが老人自身が着るという返事が来ました。二十三日に静岡で祝捷会(しゅくしょうかい)があるからそれまでに間に合うように、至急調達(ちょうだつ)しろという命令なんです。ところが可笑(おかし)いのは命令中にこうあるんです。帽子は好(い)い加減な大きさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって大丸(だいまる)へ注文してくれ……」「近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋(しろきや)と間違えたんだあね」「寸法を見計ってくれたって無理じゃないか」「そこが伯父の伯父たる所さ」「どうした?」「仕方がないから見計らって送ってやった」「君も乱暴だな。それで間に合ったのかい」「まあ、どうにか、こうにか落っ付いたんだろう。国の新聞を見たら、当日牧山翁は珍らしくフロックコートにて、例の鉄扇を持ち……」「鉄扇だけは離さなかったと見えるね」「うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ」「それでも帽子も洋服も、うまい具合に着られて善かった」

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