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 「誰だい、そんな趣味のない事をいうのは」と主人は寐返りを打ちながら大きな声を出す。「それは御存じの方なんじゃないんで――」「御存じでなくてもいいや、一体誰だい」「さる女性(にょしょう)なんです」「ハハハハハよほど茶人だなあ、当てて見ようか、やはり隅田川(すみだがわ)の底から君の名を呼んだ女なんだろう、その羽織を着てもう一返御駄仏(おだぶつ)を極(き)め込んじゃどうだい」と迷亭が横合(よこあい)から飛び出す。「ヘヘヘヘヘもう水底(みずそこ)から呼んではおりません、ここから乾(いぬい)の方角にあたる清浄(しょうじょう)な世界で……」「あんまり清浄でもなさそうだ、毒々しい鼻だぜ」「へえ?」と寒月は不審な顔をする。「向う横丁の鼻がさっき押しかけて来たんだよ、ここへ、実に僕ら二人は驚いたよ、ねえ苦沙弥君」「うむ」と主人は寐ながら茶を飲む。「鼻って誰の事です」「君の親愛なる久遠(くおん)の女性(にょしょう)の御母堂様だ」「へえー」「金田の妻(さい)という女が君の事を聞きに来たよ」と主人が真面目に説明してやる。驚くか、嬉しがるか、恥ずかしがるかと寒月君の様子を窺(うかが)って見ると別段の事もない。例の通り静かな調子で「どうか私に、あの娘を貰ってくれという依頼なんでしょう」と、また紫の紐をひねくる。「ところが大違(おおちがい)さ。その御母堂なるものが偉大なる鼻の所有主でね……」迷亭が半ば言い懸けると、主人が「おい君、僕はさっきから、あの鼻について俳体詩を考えているんだがね」と木に竹を接(つ)いだような事をいう。隣の室(へや)で妻君がくすくす笑い出す。「随分君も呑気(のんき)だなあ出来たのかい」「少し出来た。第一句がこの顔に鼻祭りというのだ」「それから?」「次がこの鼻に神酒供えというのさ」「次の句は?」「まだそれぎりしか出来ておらん」「面白いですな」と寒月君がにやにや笑う。「次へ穴二つ幽かなりと付けちゃどうだ」と迷亭はすぐ出来る。すると寒月が「奥深く毛も見えずはいけますまいか」と各々出鱈目(でたらめ)を並べていると、垣根に近く、往来で「今戸焼の狸今戸焼の狸」と四、五人わいわいいう声がする。主人も迷亭もちょっと驚ろいて表の方を、垣の隙(すき)からすかして見ると「ワハハハハハ」と笑う声がして遠くへ散る足の音がする。「今戸焼の狸というな何だい」と迷亭が不思議そうに主人に聞く。「何だか分らん」と主人が答える。「なかなか振(ふる)っていますな」と寒月君が批評を加える。迷亭は何を思い出したか急に立ち上って「吾輩は年来美学上の見地からこの鼻について研究した事が御座いますから、その一斑を披瀝(ひれき)して、御両君の清聴を煩わしたいと思います」と演舌の真似をやる。主人は余りの突然にぼんやりして無言のまま迷亭を見ている。寒月は「是非承りたいものです」と小声でいう。「色々調べて見ましたが鼻の起源はどうも確(しか)と分りません。第一の不審は、もしこれを実用上の道具と仮定すれば穴が二つで沢山である。何もこんなに横風(おうふう)に真中から突き出して見る必用がないのである。ところがどうして段々御覧の如くかようにせり出して参ったか」と自分の鼻を抓(つま)んで見せる。「あんまりせり出してもおらんじゃないか」と主人は御世辞のないところをいう。「とにかく引っ込んではおりませんからな。ただ二個の孔(あな)が併(なら)んでいる状体と混同なすっては、誤解を生ずるに至るかも計られませんから、予(あらかじ)め御注意をして置きます。――で愚見によりますと鼻の発達はわれわれ人間が鼻汁(はな)をかむと申す微細なる行為の結果が自然と蓄積してかく著明なる現象を呈出したもので御座います」「佯(いつわ)りのない愚見だ」とまた主人が寸評を挿入する。「御承知の通り鼻汁(はな)をかむ時は、是非鼻を抓みます、鼻を抓んで、ことにこの局部だけに刺激を与えますと、進化論の大原則によって、この局部はこの刺激に応ずるがため他に比例して不相当な発達を致します。皮も自然堅くなります、肉も次第に硬くなります。遂(つ)いに凝(こ)って骨となります」

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 【乾の方角】北西。【俳体詩】…

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