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 「それは少し――そう自由に肉が骨に一足飛に変化は出来ますまい」と理学士だけあって寒月君が抗議を申し込む。迷亭は何喰わぬ顔で陳(の)べ続ける。「いや御不審は御尤(ごもっとも)ですが論より証拠この通り骨があるから仕方がありません。既に骨が出来る。骨は出来ても鼻汁(はな)は出ますな。出ればかまずにはいられません。この作用で骨の左右が削り取られて細い高い隆起と変化して参ります――実に恐ろしい作用です。点滴の石を穿(うが)つが如く、賓頭顱(びんずる)の頭が自(おのず)から光明を放つが如く、不思議薫(くん)不思議臭(しゅう)の喩(たとえ)の如く、かように鼻筋が通って堅くなります」「それでも君のなんざ、ぶくぶくだぜ」「演者自身の局部は回護の恐れがありますから、わざと論じません。かの金田の御母堂の持たせらるる鼻の如きは、尤も発達せる尤も偉大なる天下の珍品として御両君に紹介して置きたいと思います」寒月君は思わずヒヤヒヤという。「しかし物も極度に達しますと偉観には相違御座いませんが何となく怖(おそろ)しくて近づきがたいものであります。あの鼻梁(びりょう)などは素晴しいには違い御座いませんが、少々峻嶮(しゅんけん)過ぎるかと思われます。古人のうちにてもソクラチス、ゴールドスミスもしくはサッカレーの鼻などは構造の上からいうと随分申し分は御座いましょうがその申し分のある所に愛矯が御座います。鼻高きが故に貴(たっと)からず、奇なるがために貴しとはこの故でも御座いましょうか。下世話(げせわ)にも鼻より団子と申しますれば美的価値から申しますと先ず迷亭位のところが適当かと存じます」寒月と主人は「フフフフ」と笑い出す。迷亭自身も愉快そうに笑う。「さて只今まで弁じましたのは――」「先生弁じましたは少し講釈師のようで下品ですから、よして頂きましょう」と寒月君は先日の復讐(ふくしゅう)をやる。「さようしからば顔を洗って出直しましょうかな。――ええ――これから鼻と顔の権衡(けんこう)に一言(いちごん)論及したいと思います。他に関係なく単独に鼻論をやりますと、かの御母堂などはどこへ出しても恥ずかしからぬ鼻――鞍馬山(くらまやま)で展覧会があっても恐らく一等賞だろうと思われる位な鼻を所有していらせられますが、悲しいかなあれは眼、口、その他の諸先生と何らの相談もなく出来上った鼻であります。ジュリアス・シーザーの鼻は大したものに相違御座いません。しかしシーザーの鼻を鋏(はさみ)でちょん切って、当家の猫の顔へ安置したらどんな者で御座いましょうか。喩(たと)えにも猫の額という位な地面へ、英雄の鼻柱が突兀(とっこつ)として聳(そび)えたら、碁盤の上へ奈良の大仏を据え付けたようなもので、少しく比例を失するの極、その美的価値を落す事だろうと思います。御母堂の鼻はシーザーのそれの如く、正(まさ)しく英姿颯爽(さっそう)たる隆起に相違御座いません。しかしその周囲を囲繞(いにょう)する顔面的条件は如何(いかが)な者でありましょう。無論当家の猫の如く劣等ではない。しかし癲癇病(てんかんや)みの御かめの如く眉(まゆ)の根に八字を刻んで、細い眼を釣るし上げらるるのは事実であります。諸君、この顔にしてこの鼻ありと嘆ぜざるを得んではありませんか」迷亭の言葉が少し途切れる途端、裏の方で「まだ鼻の話しをしているんだよ。何てえ剛突(ごうつ)く張(ばり)だろう」という声が聞える。「車屋の神さんだ」と主人が迷亭に教えてやる。迷亭はまたやり初める。「計らざる裏手にあたって、新たに異性の傍聴者のある事を発見したのは演者の深く名誉と思うところであります。ことに宛転(えんてん)たる嬌音(きょうおん)を以て、乾燥なる講筵(こうえん)に一点の艶味(えんみ)を添えられたのは実に望外の幸福であります。なるべく通俗的に引き直して佳人淑女の眷顧(けんこ)に背(そむ)かざらん事を期する訳でありますが、これからは少々力学上の問題に立ち入りますので、勢(いきおい)御婦人方には御分りにくいかも知れません、どうか御辛防を願います」

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 【賓頭顱】賓頭顱尊者。十六羅…

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