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原野宣弘さん(1944年生まれ)

 京都府宇治市で暮らす原野宣弘(はらののぶひろ)さん(71)のおなかには、胃につながるチューブが出ている。そこから栄養分を胃に送る胃ろうを5年前からしている。「ほんまに大変ですよ。昔は1時間半かかっていました。今は1時間でだんだんできるようになった」。最近はペースト食を食べられるようになったが、それも週に3日、昼食だけという。

 71年前の8月、帰って来ない父を捜す母におぶわれ、爆心地付近を行き来した。40歳ごろから脳出血や脳梗塞(こうそく)などの病気に苦しんできた。胃ろうも病気の影響だ。「原因は原爆以外に考えられない」。原爆症だと訴え、裁判を起こしているが、認められていない。

 「被爆者として生きた証しを残したい」。病気になって以降、その思いで、平和を願う絵を描いてきた。7月には初めて故郷・長崎で個展を開く予定だ。病気の影響で言語障害があり、ろれつが回らない。時折、苦しそうにしながらも、話を聞かせてくれた。

 原野さんは44年9月に生まれた。父・喜一(きいち)さんと母・センさん、4人の姉兄がおり、長崎市水の浦町で暮らしていた。爆心地から2・5キロの場所だった。

 原爆が落とされた45年8月9日は、原野さんはまだ生後10カ月の赤ちゃんだった。原野さんが語ってくれたのは、後にセンさんや姉から聞いた話だ。

 喜一さんは自宅近くの同市飽の浦町の三菱造船所で働いており、8月9日も仕事に出ていた。だが、翌10日になっても帰ってこなかった。センさんは10日に喜一さんの同僚と会い、喜一さんが9日に工場から機械を疎開させるため、西浦上にある別の工場に向かったと聞いた。

 11日からセンさんは喜一さんを捜すため、西浦上と飽の浦の間を何度も往復した。背中には原野さんをおぶっていた。手ぬぐいをかぶせられたくらいで、ほぼ裸だったという。センさんは1週間ほど、遺体を確認しながら喜一さんを捜して回った。

 1週間ほどして、疎開のために…

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