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小島恒久さん(1926年生まれ)

 1945年8月8日夜、長崎経済専門学校(現・長崎大経済学部)の学生だった小島恒久(こじまつねひさ)さん(90)=福岡市南区=は友人と映画を見に行った。原爆投下前夜のことだ。「それまでは普通の生活があったんです。そこに原爆が落ちて、変わってしまったわけです」

 9日、その友人は学徒動員で浦上の工場に出かけた。小島さんは、彼を捜して、多くの遺体が転がる中を歩き回った。見つけられなかったが、佐賀県武雄町(現・武雄市)の実家に帰ると、彼から手紙が来た。「傷は回復してきた」と書かれていた。だが、10日後に届いた手紙は、彼の死を知らせるものだった。

 《被爆の傷癒えをりと故郷(くに)より便りくれ十日後に逝きし南里好彦(なんりよしひこ)》

 「被爆体験はその後の人生の原点となった。戦争は悪だ。平和を守り抜いていかないと、と」。戦後は九州大で経済学者としての道を歩んだ。短歌をたしなみ、歌で被爆の実相を伝えている。

 小島さんは佐賀・武雄の料亭の家に生まれ育った。9歳の時に父国松(くにまつ)さんが病死し、続いて弟の1人と祖父も亡くなった。「小さい頃から人の死を考えさせられた」。母アヤさんは料亭を切り盛りしながら、小島さんら4人の子どもたちを育てた。「だいぶ苦労したみたいです」。料亭はにぎわい、結婚式も開かれた。式は深夜まで続き、小島さんも紋付きはかま姿で、花嫁花婿に三三九度のお酌をしたという。

 尋常小学校入学前の31年に満州事変が起きた。上海事変(32年)後は、「爆弾三勇士」と呼ばれた3人の美談を何度も聞いた。37年には日中戦争が開戦。旧制中時代は、勤労奉仕で農作業にかり出された。「戦争の中で暮らしていましたね」

 41年12月8日には太平洋戦争が始まった。中学に配属された将校が軍刀を抜いて「戦争が始まった。者どもがんばれ」とげきを飛ばした。その校庭が、霜で真っ白になっていた光景を覚えている。

 料亭の家庭で育った小島さんは…

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