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 あまり迷亭の言葉が仰山なので、さすが御上手者(おじょうずもの)の鈴木君も、こりゃ手に合わないという顔付をする。主人はまた始まったなといわぬばかりに、象牙(ぞうげ)の箸(はし)で菓子皿の縁(ふち)をかんかん叩いて俯(う)つ向いている。迷亭だけは大得意で弁じつづける。

 「そこでこの矛盾なる現象の説明を明記して、暗黒の淵(ふち)から吾人(ごじん)の疑(うたがい)を千載の下(もと)に救い出してくれた者は誰だと思う。学問あって以来の学者と称せらるるかの希臘(ギリシャ)の哲人、逍遥(しょうよう)派(は)の元祖アリストートルその人である。彼の説明に曰(いわ)くさ――おい菓子皿などを叩かんで謹聴していなくちゃいかん。――彼ら希臘人が競技において得るところの賞与は彼らが演ずる技芸その物より貴重なものである。それ故に褒美にもなり、奨励の具ともなる。しかし智識その物に至ってはどうである。もし智識に対する報酬として何物をか与えんとするならば智識以上の価値あるものを与えざるべからず。しかし智識以上の珍宝が世の中にあろうか。無論あるはずがない。下手なものを遣れば智識の威厳を損する訳になるばかりだ。彼らは智識に対して千両箱をオリムパスの山ほど積み、クリーサスの富を傾け尽しても相当の報酬を与えんとしたのであるが、如何に考えても到底釣り合うはずがないという事を観破して、それより以来というものは奇麗さっぱり何にも遣らない事にしてしまった。黄白(こうはく)青銭(せいせん)が智識の匹敵でない事はこれで十分理解出来るだろう。さてこの原理を服膺(ふくよう)した上で時事問題に臨んで見るがいい。金田某は何だい紙幣(さつ)に眼鼻をつけただけの人間じゃないか、奇警なる語を以て形容するならば彼は一個の活動紙幣に過ぎんのである。活動紙幣の娘なら活動切手位なところだろう。翻って寒月君は如何(いかん)と見ればどうだ。辱(かたじ)けなくも学問最高の府を第一位に卒業して毫も倦怠(けんたい)の念なく長州征伐時代の羽織の紐をぶら下げて、日夜団栗のスタビリチーを研究し、それでもなお満足する様子もなく、近々の中(うち)ロード・ケルヴィンを圧倒するほどな大論文を発表しようとしつつあるではないか。会(たまた)ま吾妻(あずま)橋(ばし)を通り掛って身投げの芸を仕損じた事はあるが、これも熱誠なる青年にありがちの発作的所為で毫も彼が智識の問屋たるに煩(わずら)いを及ぼすほどの出来事ではない。迷亭一流の喩(たとえ)を以て寒月君を評すれば彼は活動図書館である。智識を以て捏(こ)ね上げたる二十八珊(サンチ)の弾丸である。この弾丸が一たび時機を得て学界に爆発するなら、――もし爆発して見給え――爆発するだろう――」迷亭はここに至って迷亭一流と自称する形容詞が思うように出て来ないので俗にいう竜頭蛇尾の感に多少ひるんで見えたが忽(たちま)ち「活動切手などは何千万枚あったって粉(こ)な微塵(みじん)になってしまうさ。それだから寒月には、あんな釣り合わない女性(にょしょう)は駄目だ。僕が不承知だ、百獣の中(うち)で尤も聡明(そうめい)なる大象(だいぞう)と、尤も貪婪(たんらん)なる小豚と結婚するようなものだ。そうだろう苦沙弥君」といって退(の)けると、主人はまた黙って菓子皿を叩き出す。

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