インタビュー「わたしと沖縄戦」
わたしは戦争を知りません。でも、わたしにとっての戦争は、祖父の話そのもの。本当にあったことなのだから、受け止めなくてはいけないと思っています。
那覇市で生まれ、高校卒業まで過ごしました。戦没者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」(糸満市)や、たくさんの女学生が亡くなった「ひめゆりの塔」(同)など、本島南部の戦跡には小さいころから親に連れられて行きました。
学校でも6月23日の慰霊の日が近づくと、校内で写真展がありました。「白旗の少女」や、ぼろぼろの着物を着た老婆がガマ(自然洞窟〈どうくつ〉)からでてくる姿。遺体が折り重なった写真。本当に衝撃で夜になるのが怖くなってしまうほどでした。
でも、近くで暮らす祖父の戦争体験は知りませんでした。聞きたかったけど、切り出せなかったんです。家庭で戦争の話がでそうになると、祖父はきまって席を外し、どこかへいってしまう。そんな姿を見て、口に出してはいけない話題なんだ、と感じていました。
初めて体験を聞く機会がおとずれたのは、上京して7年ほどたった2007年。沖縄戦の「集団自決」をめぐる高校の歴史教科書の記述が問題になっているときでした。
ニュース番組のリポーターをしていた時、ディレクターの何げないご提案から、祖父に話を聞かせてほしいと頼むと、引き受けてくれたのです。
祖父のふるさとは慶良間(けらま)諸島・慶留間(げるま)島。周囲5キロほどの小さな島です。1945年3月末、その島に無数の艦船が押し寄せ、米軍が上陸。当時15歳の祖父は姉と2人、「自決」を決め、三つ上の姉の首をしめかかった。自分は、ヤシの葉をヒモ代わりにして首をつろうとした。でも2人とも死にきれなかった。
米軍の捕虜になれば、目はえ…