[PR]

 6月中旬、PL学園のある大阪・富田林。井元(いのもと)俊秀(79)は、苦笑した。「できればもう、表には出たくないんだが」

 62年前のPL硬式野球部1期生。1962、63年度にはOBとして初めて監督を務めた。もっとも、その存在が関係者の間で知られたのは、「陰の人間」となってからだ。

 監督退任後にスポーツ紙記者に転じた井元は30歳を過ぎてPLに戻り、職員として野球部を支えた。73年から中学生の入学希望者(入り口)と、3年生の進路(出口)を調査。グラウンドでの育成には関わらず、全国にいる教団関係者らからの情報を元に、「入り口」の選手を見極めるため各地を飛び回った。

 例えば、78年夏に初めて全国制覇した際のエース西田真次(真二に改名)は和歌山にいた。投打にレベルが高く、関東の甲子園優勝経験のある私立高も目をつけていた。が、「『PLは早くから注目してくれていたから』と、父親がうちを選んでくれた」と井元。西田の実家を三十数回訪ねた成果だった。

 井元が調査した選手たちは、76年にコーチ、80年から監督に就いた中村順司(現名古屋商科大野球部総監督)らの手で育てられ、毎年のように甲子園で活躍。実績を積んだ選手の多くはプロのほか、井元が記者時代に培った人脈も生かして東京六大学や東都大学リーグ、社会人の強豪チームへ巣立っていった。履正社(大阪)を80年代後半から率いる監督の岡田龍生は「外から見ていて、入り口と出口、野球部専用寮が一体となったシステムに驚かされた」と振り返る。

 行きすぎにも映る有望選手の入学には否定的な見方もあった。当時の日本高校野球連盟会長から選手の入学についてくぎをさされたこともある。だが、このシステムは続き、桑田真澄、清原和博の「KK」や立浪和義、福留孝介らプロでスターとなる選手が次々と門をたたいた。「PLはブランド品。選手がしっかり鍛えられていた。実力が同じならPL出身者を取った」とプロ球団の元編成担当者は語る。77年度卒の23期生から25年、各年代に必ずプロ入りした選手が出た。

 井元は言う。「僕の監督時代は、選手を希望する進路にやれなかった。選手を大学やプロに進ませられるようになって、ようやく選手と学校に恩返しができたと思っている」

 高校だけでなく、PLは球界にその名をとどろかせた。中村は98年選抜後に退任、井元は3年後に定年退職となった。直後の2001年4月、部内の暴力事件が発覚。当時の中心選手は今江敏晃、朝井秀樹ら。「KK」と並び、全国制覇の呼び声高い代だった。(敬称略)

12人で挑む「最後の夏」

 春夏の甲子園で優勝7度を誇るPL学園の硬式野球部は、この夏の大阪大会に3年生のみ12人の部員で挑む。学校が昨春から部員募集を停止しており、大会後の「休部」は避けられない状況だ。初戦の2回戦(7月15日)で、5年前の優勝校、東大阪大柏原と対戦する。

 2013年3月に部員間の暴力事件が発覚した。8月下旬まで対外試合禁止処分を受け、監督が引責辞任。秋季近畿大会以降は、野球未経験の監督がベンチに入る。甲子園出場37回、09年の春夏以降は遠ざかっている。