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「もうあんたが知ってるお父さんじゃないから」

(1年ぶりに実家に戻ったとき母に言われた言葉)

 74歳の父はもともとアスペルガー症候群であるため、症状の一部が似ているピック病(認知症の一種)になったのが、正直いつなのか分からない。

 私は、子供の頃から変わり者の父が苦手だった。苦手だったというよりは毛嫌いしていた。家に帰ってきても自分の趣味の山の本を読み、休日も家族を置いて山登り。家族のだんらんでも父だけ別空間で見えない膜で覆われているようだった。

 いつも決まった時間に入浴し、就寝しないと気がすまなかった。自分の趣味は楽しむのに、母が書道や編み物を習いに行くことを嫌い、無理やりやめさせたりした。子供の勉強にも関心がなく、母が勉強をみてくれた。

 母もフルタイムで働き、疲れて帰ってくるのに、家事は一切やらず、近所の人にあいさつされても知らんぷり、普段は寡黙なのに、お酒が入ったときだけ、たまっている恨みつらみを吐き出して大騒ぎする。そんな父をはっきり言って軽蔑していた。

 だからなのか、私の父に対する反抗期は長かった。大人げなく、30代後半まで反抗していたと思う。そんな私の気持ちが伝わるのか、父は私が苦手らしく、私に何か言いたいことがあっても、いつも母経由の伝言だった。

 そんな父が、ピック病とはっきり診断されたのは3年前だった。診断後すぐに、椅子から転倒し骨折。3カ月の入院後、要介護1だった父は要介護5になって退院した。入院中の拘束などにより、今まで自力で歩き、1人で排泄(はいせつ)していた父が、車椅子とオムツで退院した。

 入院直前まで飛行機で孫に会いに来ていた父が、飛行機にも、新幹線にも乗れなくなった。自閉症の私の息子を、父はどの孫より可愛がった。どこかで、自分に似ている、と思っていたのだと思う。もう、母と私の息子以外の名前は父の口から出てこなくなった、と母が言っていた。

 私は1年ぶりに父に会いに実家に帰った。母からは「もうあんたが知ってるお父さんじゃないから、覚悟して」と何度も言われた。覚悟はしていた。

 父に会った瞬間、あまりの細さ、小ささにびっくりした。まだ70代なのに、90歳のおじいさんのような老け方だった。たった1年なのに。やっぱり私の名前は覚えていなかった。「○○子だよ」。反応はなかった。反応はなかったが、何か怖いものでも見るようなおびえた目で私を見ていた。その日、私はベッドで泣いた。嗚咽(おえつ)して泣いた。

 ああ、父はどれだけ生きにくかったろう。自閉症の息子をもつ今だから分かる。近所付き合いも、家族とのコミュニケーションすら苦手だったんだ。公務員だった父は、好きな政治経済の知識を生かすことのできる仕事に就けてラッキーだったと思う。しかし決して出世したとは言えない。それも、職場で意思疎通にやりにくさがあったからだと思う。

 変わり者の父を支え続けた母もスーパーウーマンだと思う。私が反発するたびに「お父さんはこういう人だから分かってあげて」と諭した姉。母も、姉も、父の変わり者、あるいは本人の生きにくさをちゃんと理解していたんだ。私だけ気がつかずに反抗し続け、今になってやっと、父の大変さ、本当は家族のことを愛していたことに気づいた。そう、気づいた時にはすでに遅し。私は、なんて親不孝なんだろう。

 父の中で、私は「怖い娘」のままで止まっている。そしてやがてその怖い娘との記憶も、ストーリーも、消えてなかったことになってしまうのだろうか。

 父に、ありがとう、って言いたかった。記憶の中の私は、怖い娘ではなく、優しい娘でありたかった。

◆横浜市 40歳女性

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 朝日新聞文化くらし報道部「介護 あのとき、あの言葉」係

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