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 「奥さんこれが僕の自弁の御馳走ですよ。ちょっと御免(ごめん)蒙(こうむ)って、ここでぱくつく事に致しますから」と叮嚀(ていねい)に御辞儀をする。真面目(まじめ)なような巫山戯(ふざけ)たような動作だから細君も応対に窮したと見えて「さあどうぞ」と軽く返事をしたぎり拝見している。主人は漸(ようや)く写真から眼を放して「君この暑いのに蕎麦は毒だぜ」といった。「なあに大丈夫、好きなものは滅多に中(あた)るもんじゃない」と蒸籠(せいろ)の蓋をとる。「打ち立てはありがたいな。蕎麦の延びたのと、人間の間が抜けたのは由来頼母(たのも)しくないもんだよ」と薬味をツユの中へ入れて無茶苦茶に搔き廻わす。「君そんなに山葵(わさび)を入れると辛(か)らいぜ」と主人は心配そうに注意した。「蕎麦はツユと山葵で食うもんだあね。君は蕎麦が嫌いなんだろう」「僕は饂飩(うどん)が好きだ」「饂飩は馬子(まご)が食うもんだ。蕎麦の味を解しない人ほど気の毒な事はない」といいながら杉箸(すぎばし)をむざと突き込んで出来るだけ多くの分量を二寸ばかりの高さにしゃくい上げた。「奥さん蕎麦を食うにも色々流儀がありますがね。初心の者に限って、むやみにツユを着けて、そうして口の内でくちゃくちゃ遣っていますね。あれじゃ蕎麦の味はないですよ。何でも、こう、一としゃくいに引っ掛けてね」といいつつ箸を上げると、長い奴が勢揃(せいぞろ)いをして一尺ばかり空中に釣るし上げられる。迷亭先生もう善(よ)かろうと思って下を見ると、まだ十二、三本の尾が蒸籠の底を離れないで簀垂(すだ)れの上に纏綿(てんめん)している。「こいつは長いな、どうです奥さん、この長さ加減は」とまた奥さんに相の手を要求する。奥さんは「長いもので御座いますね」とさも感心したらしい返事をする。「この長い奴へツユを三分(ぶ)一つけて、一口に飲んでしまうんだね。嚙(か)んじゃいけない。嚙んじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉(のど)を滑(すべ)り込むところがねうちだよ」と思い切って箸を高く上げると蕎麦は漸くの事で地を離れた。左手(ゆんで)に受ける茶碗の中へ、箸を少しずつ落して、尻尾の先から段々に浸(ひた)すと、アーキミジスの理論によって、蕎麦の浸(つか)った分量だけツユの嵩(かさ)が増してくる。ところが茶碗の中には元からツユが八分目這入(はい)っているから、迷亭の箸にかかった蕎麦の四半分も浸(つか)らない先に茶碗はツユで一杯になってしまった。迷亭の箸は茶碗を去る五寸の上に至ってぴたりと留まったきり暫(しばら)く動かない。動かないのも無理はない。少しでも卸(おろ)せばツユが溢(こぼ)れるばかりである。迷亭も茲(ここ)に至って少し●(足へんに厨)躇(ちゅうちょ)の体(てい)であったが、忽ち脱兎の勢を以て、口を箸の方へ持って行ったなと思う間もなく、つるつるちゅうと音がして咽喉笛(のどぶえ)が一、二度上下へ無理に動いたら箸の先の蕎麦は消えてなくなっておった。見ると迷亭君の両眼から涙のようなものが一、二滴眼尻から頰(ほお)へ流れ出した。山葵が利(き)いたものか、飲み込むのに骨が折れたものかこれはいまだに判然しない。「感心だなあ。よくそんなに一どきに飲み込めたものだ」と主人が敬服すると「御見事です事ねえ」と細君も迷亭の手際(てぎわ)を激賞した。迷亭は何にもいわないで箸を置いて胸を二、三度敲(たた)いたが「奥さん笊(ざる)は大抵三(み)口(くち)半か四口で食うんですね。それより手数を掛けちゃ旨(うま)く食えませんよ」とハンケチで口を拭(ふ)いてちょっと一息入れている。

 ところへ寒月君が、どういう了…

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