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山村知史さん(1935年生まれ)

 2016年6月末。大雨で斜面崩落が起こり、高台の住宅が崩れ落ちる被害が出た長崎市御船蔵町。現場近くで取材をしていると、崩れた斜面を見守る男性と出会った。

 「崩れたのはもともと段々畑だった場所。コンクリートがだめになってきたんやろう。ここで生まれ、原爆でも長崎大水害でも生き残ってきたがこんなことは初めて」と語った。日を改めて自宅を訪ね、詳しく話を聞かせてもらった。

 男性は、近くに住む山村知史(やまむらともちか)さん(80)。町内にある西坂国民学校(現・西坂小学校)3年生のとき、爆心地から南南東へ1・8キロ、現在も自宅がある場所で被爆した。一家は無事だったが、爆風で町内の建物は倒壊し、焼け野原になったという。山村さんは一時疎開し、1950年代には家族で御船蔵町に戻って来た。そして、この土地に住み続けてきた。

 焼け野原から復興し、土砂災害で再び傷ついてしまった御船蔵町。その様子を、どんな気持ちで見守ってきたのだろうか。

 山村さんは長崎市御船蔵町で生まれた。長崎原爆戦災誌によると、45年当時の町の人口は約380世帯1700人。山村さんの記憶では、住宅よりも畑が多い地域で、兄や友人と段々畑の脇を駆け上がり、裏山のわき水を飲みに行ったのだという。

 風景が今と大きく異なるのは運河があったことだ。戦後に埋め立てられ電車通りになっている。御船蔵町からその運河を渡り、さらに国鉄の線路をはさんだ反対側、幸町の三菱長崎造船所幸町工場には外国人の捕虜収容所があった。戦災誌によるとインドネシアや英国、米国などの400人ほどがいたらしい。

 山村さんは44年の秋ごろ、稲佐橋のあたりでオランダの国旗に巻かれた遺体を運ぶ西洋系の捕虜の姿を見た。肌寒くなり始めたのに捕虜は裸足で歩いていたのが印象的で、竹の久保町にあった火葬場に運んでいるようだった。山村さんはその光景を思い出し、「米国は原爆を落としたが、日本もひどかことをしとった」と、今になって思っている。

 山村さんは西坂国民学校に通った。2年生だった44年の秋ごろになると暮らし向きが厳しくなり、学校を休んで兄とリュックを背負い、三重や式見の方へ15キロ近い道のりを歩いて、イモなどの食糧の買い出しに行った。「うん、と言って売ってくれる農家はなかなかおらんかった。でも学校に行くより勉強になったんかも」と振り返る。

 学校生活は敵機の来襲に備えた訓練ばかりだった。児童は左胸に現住所や血液型を書いた名札を貼った。空襲でけがをしたり迷子になったりしたときでも身元がわかるようにという、緊急連絡先の代わりだった。

 実際に空襲は激しくなっていた。45年8月1日には長崎市中心部へ最大規模の空襲があった。家にあったラジオからは、空襲を知らせる音がしきりに鳴っていた。

 空襲はひどくなったが家族で疎開はしなかった。「どこにいても、死ぬときは死ぬたい」が口癖の、県庁勤めの父の意向だった。

 8月9日。山村さんは「朝から蒸し暑い日やった」と振り返る。朝から西坂国民学校に登校したが、警戒警報が発令されたために下校。自宅近くでセミとりをして遊んでいると、近所の友達が「浦上川に泳ぎに行こう」と誘いに来た。

 山村さんはそのまま出かけようとしたが、山村さんと友人とのやりとりを聞いていた母に、「昼ご飯を食べてから行かんね」と止められた。

 しぶしぶ家の中に戻り、茶の間に足を踏み入れた瞬間だった。「稲妻よりも強い、青白い光が窓から入ってきた」

 北北西へ約1・8キロ。長崎市…

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