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 「ああ、あんまり生き過ぎてつい自分の年を忘れてね。百までは覚えていましたがそれから忘れてしまいましたといってたよ。それでわしの知っていたのが百三十の時だったが、それで死んだんじゃない。それからどうなったか分らない。事によるとまだ生きてるかも知れない」といいながら槽(ふね)から上る。髯を生やしている男は雲母(きらら)のようなものを自分の廻りに蒔(ま)き散らしながら独りでにやにや笑っていた。入れ代って飛び込んで来たのは普通一般の化物とは違って脊中に模様画をほり付けている。岩見重太郎(いわみじゅうたろう)が大刀を振り翳(かざ)して蟒(うわばみ)を退治るところのようだが、惜しい事にまだ竣功(しゅんこう)の期に達せんので、蟒はどこにも見えない。従って重太郎先生聊(いささ)か拍子抜けの気味に見える。飛び込みながら「篦棒(べらぼう)に温(ぬ)るいや」といった。するとまた一人続いて乗り込んだのが「こりゃどうも……もう少し熱くなくっちゃあ」と顔をしかめながら熱いのを我慢する気色(けしき)とも見えたが、重太郎先生と顔を見合せて「やあ親方」と挨拶(あいさつ)をする。重太郎は「やあ」といったが、やがて「民(たみ)さんはどうしたね」と聞く。「どうしたか、じゃんじゃんが好きだからね」「じゃんじゃんばかりじゃねえ……」「そうかい、あの男も腹のよくねえ男だからね。――どういうもんか人に好かれねえ、――どういうものだか、――どうも人が信用しねえ。職人てえものは、あんなもんじゃねえが」「そうよ。民さんなんざあ腰が低いんじゃねえ、頭(ず)が高(た)けえんだ。それだからどうも信用されねえんだね」「本当によ。あれで一っぱし腕があるつもりだから、――つまり自分の損だあな」「白銀町(しろかねちょう)にも古い人は亡くなってね、今じゃ桶屋の元(もと)さんと煉瓦屋(れんがや)の大将と親方ぐれえな者だあな。こちとらあこうして茲(ここ)で生れたもんだが、民さんなんざあ、どこから来たんだか分りゃしねえ」「そうよ。しかしよくあれだけになったよ」「うん。どういうもんか人に好かれねえ。人が交際(つきあ)わねえからね」と徹頭徹尾民さんを攻撃する。

 天水桶はこの位にして、白い湯の方を見るとこれはまた非常な大入(おおいり)で、湯の中に人が這入ってるといわんより人の中に湯が這入ってるという方が適当である。しかも彼らは頗る悠々閑々(ゆうゆうかんかん)たる物で、先刻(さっき)から這入るものはあるが出る物は一人もない。こう這入った上に、一週間もとめて置いたら湯もよごれるはずだと感心してなおよく槽(おけ)の中を見渡すと、左の隅(すみ)に圧しつけられて苦沙弥先生が真赤になってすくんでいる。可哀(かわい)そうに誰か路(みち)をあけて出してやればいいのにと思うのに誰も動きそうにもしなければ、主人も出ようとする気色も見せない。ただじっとして赤くなっているばかりである。これは御苦労な事だ。なるべく二銭五厘の湯銭(ゆせん)を活用しようという精神からして、かように赤くなるのだろうが、早く上がらんと湯気(ゆけ)にあがるがと主(しゅう)思いの吾輩は窓の棚から少なからず心配した。すると主人の一軒置いて隣りに浮いてる男が八の字を寄せながら「これはちと利き過ぎるようだ、どうも脊中の方から熱い奴がじりじり湧(わ)いてくる」と暗(あん)に列席の化物に同情を求めた。「なあにこれが丁度いい加減です。薬湯はこの位でないと利きません。わたしの国なぞではこの倍も熱い湯へ這入ります」と自慢らしく説き立てるものがある。「一体この湯は何に利くんでしょう」と手拭を畳んで凸凹頭(デコボコあたま)をかくした男が一同に聞いて見る。「色々なものに利きますよ。何でもいいてえんだからね。豪気(ごうぎ)だあね」といったのは瘠(や)せた黄瓜(きゅうり)のような色と形とを兼ね得たる顔の所有者である。そんなに利く湯なら、もう少しは丈夫そうになれそうなものだ。「薬を入れ立てより、三日目か四日目が丁度いいようです。今日などは這入り頃ですよ」と物知り顔に述べたのを見ると、膨(ふく)れ返った男である。これは多分垢肥(あかぶと)りだろう。「飲んでも利きましょうか」とどこからか知らないが黄色い声を出す者がある。「冷えた後などは一杯飲んで寐ると、奇体に小便に起きないから、まあやって御覧なさい」と答えたのは、どの顔から出た声か分らない。

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