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 路頭に迷う結果はのたれ死にをしなければならない。換言すると免職は主人にとって死の遠因になるのである。主人は好んで病気をして喜こんでいるけれど、死ぬのは大嫌(だいきらい)である。死なない程度において病気という一種の贅沢がしていたいのである。それだからそんなに病気をしていると殺すぞと嚇(おど)かせば臆病なる主人の事だからびりびりと悸(ふる)え上がるに相違ない。この悸え上がる時に病気は奇麗に落ちるだろうと思う。それでも落ちなければそれまでの事さ。

 如何に馬鹿でも病気でも主人に変りはない。一飯君恩を重んずという詩人もある事だから猫だって主人の身の上を思わない事はあるまい。気の毒だという念が胸一杯になったため、ついそちらに気が取られて、流しの方の観察を怠たっていると、突然白い湯槽(ゆぶね)の方面に向って口々に罵る声が聞える。ここにも喧嘩が起ったのかと振り向くと、狭い柘榴(ざくろ)口(ぐち)に一寸の余地もない位に化物が取りついて、毛のある脛(すね)と、毛のない股(また)と入り乱れて動いている。折から初秋(はつあき)の日は暮るるになんなんとして流しの上は天井まで一面の湯気が立て籠める。かの化物の犇(ひしめ)く様がその間から朦朧(もうろう)と見える。熱い熱いという声が吾輩の耳を貫ぬいて左右へ抜けるように頭の中で乱れ合う。その声には黄なのも、青いのも、赤いのも、黒いのもあるが互に畳(かさ)なりかかって一種名状すべからざる音響を浴場内に漲(みなぎ)らす。ただ混雑と迷乱とを形容するに適した声というのみで、外には何の役にも立たない声である。吾輩は茫然(ぼうぜん)としてこの光景に魅入られたばかり立ちすくんでいた。やがてわーわーという声が混乱の極度に達して、これよりはもう一歩も進めぬという点まで張り詰められた時、突然無茶苦茶に押し寄せ押し返している群(むれ)の中から一大長漢がぬっと立ち上がった。彼の身の丈(たけ)を見ると他(ほか)の先生方よりは慥(たし)かに三寸位は高い。のみならず顔から髯(ひげ)が生えているのか髯の中に顔が同居しているのか分らない赤つらを反(そ)り返して、日盛りに破(わ)れ鐘(がね)をつくような声を出して「うめろうめろ、熱い熱い」と叫ぶ。この声とこの顔ばかりは、かの紛々(ふんぷん)と縺(もつ)れ合う群衆の上に高く傑出して、その瞬間には浴場全体がこの男一人になったと思わるるほどである。超人だ。ニーチェのいわゆる超人だ。魔中の大王だ。化物の頭梁(とうりょう)だ。と思って見ていると湯槽の後ろでおーいと答えたものがある。おやとまたもそちらに眸(ひとみ)をそらすと、暗憺(あんたん)として物色も出来ぬ中に、例のちゃんちゃん姿の三介(さんすけ)が砕けよと一塊りの石炭を竈(かまど)の中に投げ入れるのが見えた。竈の蓋をくぐって、この塊りがぱちぱちと鳴るときに、三介の半面がぱっと明るくなる。同時に三介の後ろにある煉瓦の壁が暗(やみ)を通して燃える如く光った。吾輩は少々物凄(ものすご)くなったから早々窓から飛び下りて家に帰る。帰りながらも考えた。羽織を脱ぎ、猿股を脱ぎ、袴を脱いで平等になろうと力(つと)める赤裸々の中には、また赤裸々の豪傑が出て来て他の群小を圧倒してしまう。平等はいくらはだかになったって得られるものではない。

 帰って見ると天下は太平なもの…

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