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匠の圭

 ラケットを幾度もたたきつけた。いらだち、憤り。錦織圭が戦っているのは、ネット越しのスタン・バブリンカ(スイス)ではなく、自分自身に見えた。

 バブリンカのミスショットを誘い、第1セットは6―4と29分間で先取した。雲行きが怪しくなったのは第2セット第7ゲーム。バブリンカのサービスゲームで3ポイントを連取し、トリプルブレークポイントの絶好機を迎えながらジュースに持ち込まれた。ここで、錦織が得意なバックハンドのダウン・ザ・ラインが決まり、再びブレークポイント。しかし、ここも取り切れず、逆にバブリンカが片手打ちで打ち抜くバックのダウン・ザ・ラインを逆にお見舞いされてキープされた。このセットは8回のブレークポイントを1度しか生かせず、失った。

 第3セット以降、錦織の足が止まった。準々決勝でアンディ・マリー(英)との4時間を超す激闘の疲労が抜けていなかった。さらに自宅がある米フロリダ州ブラデントン並みの蒸し暑さが、ただでさえ残量が少ないエネルギーを奪った。

 肉体だけではない。「自分が疲れて、思考能力も低下し、徐々に動けなくなった。長いポイントで食らいついていくプレーが難しくなった」「メンタル的にいつもみたいに考えられる状況ではなかった」

 錦織がファイナルセットにもつれた試合の勝率が歴代1位なのは有名だが、それは試合中に相手の弱点を見抜く情報処理能力が優れているからだ。その頼みの頭脳が、疲労とうだるような暑さも手伝い、うまく回らない。丁寧に前後左右に球を散らし、じわじわ攻める本来の粘りが消えた。

 第2セット以降は5―7、4―6、2―6と奪われ、全米オープン2年ぶりの決勝進出は消えた。

 負けた錦織の記者会見で笑いが起きた。「今後、決勝に進んで勝つには何が必要か?」との質問に対し、「うーん、フィジカル的にはもっと強くなりたいという気持ちはありますけど、ドーピングをしない限り難しい」。ドキッとさせる表現を使ったからだ。力の限りは尽くしたという心情を、刺激的な冗談にくるんだようにも感じた。

 仮に準決勝で勝っていても、決勝は今季5戦全敗の世界ランキング1位、ノバク・ジョコビッチ(セルビア)が待ち受けていた。7試合を勝ち抜く心身のスタミナがなければ、4大大会の頂点には立てない。

 もっとも、この日、第2セットを奪えていれば、結果が違った可能性は大きい。「世界2位、3位、そしてノバクが決勝で待つのは楽じゃない。でも、それまでの数試合でもう少し楽に勝てていれば、今日、そして決勝でも、もう少しチャンスがあったかも」

 ノーシード勢と当たる大会序盤で体力を温存しつつ、勝ちきる大切さ。そして、頂上に近づくにつれ、険しくなる道のりを体感した6試合となった。

 2連覇を狙うジョコビッチが錦織をこう評した。「ケイは世界5~7位とかにこの2年、いつもいる。成功に飢えている。4大大会優勝はないが、すごく近い。疑う余地がない」。社交辞令には聞こえない。

 リオデジャネイロ五輪で過去1勝9敗だったラファエル・ナダル(スペイン)を破って銅メダルを手にし、全米では1勝7敗だったマリーを破って4強入り。この夏、錦織は通称「ビッグ4」の2人を、大舞台で破った。

 ただでさえ過密日程のツアーに加え、五輪で6試合戦った2016年夏。特に、大きなけがもなく乗り越えたフィジカル面の成長で確かな地歩を固めた。

 「トップ選手に勝っているという事実を忘れず、残りのシーズンを戦い抜きたい」。世界のトップ5の「常連」で安住する気はない。錦織の視線は、すでに秋の戦いに向いていた。(編集委員・稲垣康介)

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