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 その人の説によるとこれで成功しなければ葡萄酒(ぶどうしゅ)の湯をわかして這入れば一返で功能があると信じ切っている。しかし金がないのでついに実行する事が出来なくて死んでしまったのは気の毒である。最後に古人の真似をしたらインスピレーションが起るだろうと思い付いた者がある。これはある人の態度動作を真似ると心的状態もその人に似てくるという学説を応用したのである。酔っぱらいのように管(くだ)を捲(ま)いていると、いつの間にか酒飲みのような心持になる、坐禅をして線香一本の間我慢しているとどことなく坊主らしい気分になれる。だから昔からインスピレーションを受けた有名の大家の所作を真似れば必ず逆上するに相違ない。聞くところによればユーゴーは快走船(ヨット)の上へ寐転んで文章の趣向を考えたそうだから、船へ乗って青空を見詰めていれば必ず逆上受合(うけあい)である。スチーヴンソンは腹這(はらばい)に寐(ね)て小説を書いたそうだから、打つ伏しになって筆を持てばきっと血が逆かさに上ってくる。かように色々な人が色々の事を考え出したが、まだ誰も成功しない。先ず今日のところでは人為的逆上は不可能の事となっている。残念だが致し方がない。早晩随意にインスピレーションを起し得る時機の到来するは疑もない事で、吾輩は人文のためにこの時機の一日(じつ)も早く来らん事を切望するのである。

 逆上の説明はこの位で充分だろうと思うから、これよりいよいよ事件に取りかかる。しかし凡(すべ)ての大事件の前には必ず小事件が起るものだ。大事件のみを述べて、小事件を逸するのは古来から歴史家の常に陥る弊竇(へいとう)である。主人の逆上も小事件に逢度(あうたび)に一層の劇甚(げきじん)を加えて、遂に大事件を引き起したのであるからして、幾分かその発達を順序立てて述べないと主人が如何に逆上しているか分りにくい。分りにくいと主人の逆上は空名に帰して、世間からはよもやそれほどでもなかろうと見くびられるかも知れない。折角逆上しても人から天晴(あっぱれ)な逆上と謡(うた)われなくては張り合がないだろう。これから述べる事件は大小にかかわらず主人に取って名誉な者ではない。事件その物が不名誉であるならば、責めて逆上なりとも、正銘の逆上であって、決して人に劣るものでないという事を明かにして置きたい。主人は他に対して別にこれといって誇るに足る性質を有しておらん。逆上でも自慢しなくてはほかに骨を折って書き立ててやる種がない。

 落雲館に群がる敵軍は近日に至…

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