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「かあちゃんは、そういう思いを30年背負ってきたんだ」

(脳梗塞〈こうそく〉で左半身まひになった母がつぶやいた言葉)

 33歳から50歳まで、脳梗塞(こうそく)で左半身まひになった母を17年間シングル介護し、みとりました。

 介護を始めた当時は、まだ介護保険制度はスタートしていませんでした。勤めていた会社にも介護休業制度はなく、仕事との両立ができず、離職しました。

 母の介護をしようにも、私はみそ汁1杯作れませんでした。それまで家の内外すべてのことを母がしてくれていたからです。ですから私は女性であっても、シングルであるがゆえに、「家事に不慣れで、近所づきあいも少なく、孤独に陥りやすい」と言われる男性介護者と同じ悩みを抱えたのです。それまでの生活とは180度変わってしまった介護の現実を受け止めきれませんでした。

 ある時「私の人生は、母によって変えられた」という心の叫びを聞いてしまったのです。自分では納得して仕事を辞めたと思っていたのですが、全然違っていた。続けられるものなら、続けていたかったんだ。そう思っていたんだ、と気づいてしまったのです。ストレスはたまる一方でした。

 介護期間が長くなるにつれ、顔を出してくれる人もいなくなります。私も気軽に外出できなくなるので、友だちとも疎遠になります。そして母以外の人と話をしない日が何日も続きます。揚げ句の果ては「わが家が透明で、よその人には見えないんじゃないか」と思えるくらい、孤立感を深めました。

 「もうこんな生活は嫌だ。みんな放り出して逃げたい。母を置き去りにして、どこかへ行ってしまいたい」。もうだめだ、と感じる一歩手前でした。

 介護を始めて4年目のことです。私に町内の役が回ってきました。地区の集まりに出かけると、60人ほど集まった中で、女性は私1人きりでした。帰宅して母の顔を見たとたん、涙がこぼれました。「何で私ばっかりひどい目に遭わなきゃいけないんだ」。たまりにたまっていたうっぷんが噴き出しました。

 思いの丈をしゃべり、一息ついた時でした。母がつぶやきました。「かあちゃんは、そういう思いを30年背負ってきたんだ」と。そして、胸の奥にしまい続けてきた思いを話し始めたのです。

 母は昭和35年、後妻としてこの地に嫁いで来ました。父と祖母、継子である私の姉との4人暮らしが始まりました。4年後に私が生まれました。昭和46年に寝たきりだった祖母が他界。翌年、父が仕事中に土砂崩れに遭い死にました。当時父は農業の傍ら、工務店の臨時作業員として働いていました。集中豪雨災害の復旧工事中の一瞬の出来事でした。

 そして4年後、姉が結婚して家を出ました。それ以来、女手ひとつで母は私を育ててくれたのです。父が死んでからは、家の内外すべてのことが母の肩にのしかかったそうです。その重圧からか、毎日起こる胃痛に体を丸めて耐えたそうです。当時、この地域で寡婦は母1人。愚痴をこぼせる相手もなく、懸命に働くしかなかったそうです。

 母も弱い心を体の奥に隠して懸命に生きてきたんだ。母も私と同じ思いを味わってきたんだ。そう思えた時、私の中にたまりにたまっていたうっぷんは、一瞬にして流れ去り、代わりに母に対するいとしさがあふれ出しました。

 それからは、母のこの言葉が私の心のつっかい棒になりました。この言葉を聞くことができたからこそ、介護を乗り切ることができました。確かに介護は大変です。でもその一方で、親とじっくり向き合える貴重な時間でもあります。母が脳梗塞で倒れ、そのまま息を引き取っていたら、私は母のことを何ひとつ知らずに終わっていました。介護したからこそ、母の気持ちや人生を知ることができたのです。

◆長野県 社会福祉士 飯森美代子さん(52)

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 朝日新聞文化くらし報道部「介護 あのとき、あの言葉」係

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