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 吾輩は主人と違って、元来が早起の方だから、この時既に空腹になって参った。到底うちのものさえ膳(ぜん)に向わぬさきから、猫の身分を以て朝めしにありつける訳のものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや烟(けむり)の立った汁の香(におい)が鮑貝(あわびがい)の中から、うまそうに立ち上(あが)っておりはすまいかと思うと、じっとしていられなくなった。はかない事を、果敢(はか)ないと知りながら頼みにするときは、ただその頼みだけを頭の中に描いて、動かずに落ち付いている方が得策であるが、さてそうは行かぬ者で、心の願(ねがい)と実際が、合うか合わぬか是非とも試験して見たくなる。試験して見れば必ず失望するにきまってる事ですら、最後の失望を自ら事実の上に受取るまでは承知出来んものである。吾輩は堪(たま)らなくなって台所へ這出(はいだ)した。先ずへっついの影にある鮑貝の中を覗(のぞ)いて見ると案に違(たが)わず、夕べ舐(な)め尽したまま、闃然(げきぜん)として、怪しき光が引窓を洩(も)る初秋(はつあき)の日影にかがやいている。御三(おさん)は既に炊(た)き立(たて)の飯を、御櫃(おはち)に移して、今や七輪(しちりん)にかけた鍋(なべ)の中をかきまぜつつある。釜(かま)の周囲には沸き上がって流れだした米の汁が、かさかさに幾条(いくすじ)となくこびり付いて、あるものは吉野紙(よしのがみ)を貼(は)りつけた如くに見える。もう飯も汁も出来ているのだから食わせてもよさそうなものだと思った。こんな時に遠慮するのは詰らない話だ、よしんば自分の望(のぞみ)通りにならなくったって元々で損は行かないのだから、思い切って朝飯の催促をしてやろう、いくら居候(いそうろう)の身分だってひもじいに変りはない。と考え定めた吾輩はにゃあにゃあと甘える如く、訴うるが如く、あるいはまた怨(えん)ずるが如く泣いて見た。御三は一向顧みる景色がない。生れ付いての御多角(おたかく)だから人情に疎(うと)いのはとうから承知の上だが、そこをうまく泣き立てて同情を起させるのが、こっちの手際(てぎわ)である。今度はにゃごにゃごとやって見た。その泣き声はわれながら悲壮の音(おん)を帯びて天涯の遊子(ゆうし)をして断腸の思(おもい)あらしむるに足ると信ずる。御三は恬(てん)として顧みない。この女は聾(つんぼ)なのかも知れない。聾では下女が勤まる訳がないが、ことによると猫の声だけには聾なのだろう。世の中には色盲というのがあって、当人は完全な視力を具(そな)えているつもりでも、医者からいわせると片輪だそうだが、この御三は声盲なのだろう。声盲だって片輪に違ない。片輪のくせにいやに横風(おうふう)なものだ。夜中なぞでも、いくらこっちが用があるから開(あ)けてくれろといっても決して開けてくれた事がない。たまに出してくれたと思うと今度はどうしても入れてくれない。夏だって夜露は毒だ。いわんや霜においてをやで、軒下に立ち明かして、日の出を待つのは、どんなに辛(つら)いか到底想像が出来るものではない。この間しめ出しを食った時なぞは野良犬の襲撃を蒙(こうむ)って、既に危うく見えたところを、漸(ようや)くの事で物置の家根(やね)へかけ上(あが)って、終夜顫(ふる)えつづけた事さえある。これらは皆御三の不人情から胚胎(はいたい)した不都合である。こんなものを相手にして鳴いて見せたって、感応のあるはずはないのだが、そこが、ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに恋のふみという位だから、大抵の事ならやる気になる。にゃごおうにゃごおうと三度目には、注意を喚起するためにことさらに複雑なる泣き方をして見た。自分ではベトヴェンのシンフォニーにも劣らざる美妙の音(おん)と確信しているのだが御三には何らの影響も生じないようだ。御三は突然膝(ひざ)をついて、揚ゲ板を一枚はね除(の)けて、中から堅炭(かたずみ)の四寸(すん)ばかり長いのを一本つかみ出した。それからその長い奴を七輪の角(かど)でぽんぽんと敲(たた)いたら、長いのが三つほどに砕けて近所は炭の粉で真黒くなった。少々は汁の中へも這入(はい)ったらしい。御三はそんな事に頓着(とんじゃく)する女ではない。直ちにくだけたる三個の炭を鍋の尻から七輪の中へ押し込んだ。到底吾輩のシンフォニーには耳を傾けそうにもない。仕方がないから悄然(しょうぜん)と茶の間の方へ引きかえそうとして風呂場の横を通り過ぎると、ここは今女の子が三人で顔を洗ってる最中で、なかなか繁昌(はんじょう)している。

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 【闃然】ひっそりとして静かな…

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