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武藤嘉光さん(1932年生まれ)

 この夏、29年ぶりに甲子園に出場した長崎商業高校。8月9日午前11時ごろ、試合中の球場が静かになった。長崎商の選手たちは攻守交代の間、目を閉じ故郷に思いをはせた。

 私が長崎へ転勤して初めての8月9日は、甲子園で迎えた。代表校が長崎商に決まってから、当時爆心地から約1・1キロで被爆した学校だと知った。晴れ舞台で「8月9日に試合ができてうれしい」「長崎を元気づけたい」と語った球児たち。彼らの先輩たちがどんな体験をしたのか、知りたいと思った。

 夏が終わり、紹介してもらったのが長崎商3回生だった武藤嘉光(むとうよしみつ)さん(84)。校内で被爆し、奇跡的に助かった。電話で取材のお願いをすると、「あんまりね、話したくはないんですよ。孫に家族ができるまでは」。被爆者であることをあまり知られたくないため、これまであった取材の依頼に積極的には応じてこなかったという。

 少し迷いながら武藤さんのもとに通い始めると、自身の人生を丁寧に語ってくれた。

 武藤さんは1932年8月、父・円造(えんぞう)さんと母・カチヨさんの間に、8人きょうだいの5番目の子どもとして、長崎市今町(現・金屋町)に生まれた。円造さんは「武藤クリーニング店」を営み、家は職人が住み込んで働く大所帯だった。学校から帰って家業を手伝わされるのが嫌で、釣りをしたり、金比羅山で遊んだりしてから家路についた。職人とアイロン台で卓球をすることもあった。

 武藤さんにとって、戦争は「当たり前」だった。生まれる前年に満州事変があり、幼い頃、日中戦争が始まった。太平洋戦争が始まると、生活の中で戦争の存在感はより大きくなった。海水浴場「東望の浜」(現・長崎市中央卸売市場)で泳いでいた時、敵機が来襲したことがあった。空襲警報が鳴り、海水浴客たちが二手に分かれて逃げると、3、4機がその間を「バシャバシャ」と銃撃した。あまり恐怖は感じなかったという。「生まれる前から戦争続きですから」

 アメリカが憎く、必ず勝つと信…

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