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ロータリーエンジンの半世紀 胎動編(1)

 その日は青空だったと、多くの人が記憶している。

 1945年8月6日、月曜日。東洋工業(現マツダ)の当時の社長、松田重次郎(じゅうじろう)は70歳の誕生日を迎えていた。広島市牛田町(現広島市東区)の自宅を車で出発し、誕生日の習慣で広島市内のなじみの理髪店で髪を切る。広島護国神社を経て、広島県府中町の会社へ。何げない一日の始まりのはずだった。

 午前8時15分。

 旧国鉄広島駅近くの踏切を越えたあたりで、松田はカメラのストロボを何倍にも強くしたような光に包まれ、首の後ろに熱を感じた。

 その時間、西へ約2キロ離れた病院の上空約600メートルで、米軍の原子爆弾「リトルボーイ」が炸裂(さくれつ)。松田の後に理髪店に入った男性は、店内で犠牲になったという。紙一重。この日広島では、多くの生と死が交錯した。

 東洋工業は操業前の準備の時間帯。羽山末子(89)が同僚の机を拭き終え、本社1階洗面所で雑巾を洗っていたとき、閃光(せんこう)が走った。何があったのか。窓に近づくと、続いてやってきた爆風がガラスを突き破る。顔中から血を流す羽山を同僚が慌てて付属の病院へと連れ出した。外へ出ると、比治山の向こうに巨大なキノコ雲がわき上がるのが見えた。

     ◇

 「硝子(ガラス)は四散し一時に何物も消滅せるかの感を呈し」

 松田の長男で専務だった恒次(…

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