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 飛鳥時代で最大級の方形の古墳(方墳)の可能性が高まった奈良県明日香村の小山田(こやまだ)古墳。そこに眠っていたのは、新しい国づくりを目指した舒明(じょめい)天皇(593~641)だったのか。天皇をしのぐ権勢を誇ったとされる豪族の蘇我蝦夷(そがのえみし)だったのか。なぜ、古墳は短期間で壊されたのか。古代史の謎が深まってきた。

 近畿の天皇や豪族の墓の形は、飛鳥時代を通じて変化する。3世紀中ごろの古墳時代初めから続いた前方後円墳は6世紀末に終わりを告げ、方墳に。7世紀中ごろからは天皇墓に八角形墳が採用される。その八角形墳の始まりが最古の国家寺院、百済大寺(くだらのおおでら)を建て、遣唐使を初めて派遣した舒明天皇の陵墓とされる段ノ塚古墳(奈良県桜井市)だ。

 舒明天皇は629年、7世紀前半に厩戸王(うまやとおう=聖徳太子)や蘇我馬子(うまこ)と政治を進めた推古(すいこ)天皇の死後に即位。馬子の子、蝦夷ら蘇我氏が権力を握るなか、飛鳥の中心から離れた地に百済宮(くだらのみや)や百済大寺を築く。蘇我氏とは距離を置き、天皇中心の中央集権国家づくりを目指したとの見方もある。

 近畿で最大級の方墳は聖徳太子の父、用明(ようめい)天皇の陵墓とされる大阪府太子町の春日向山古墳(東西66メートル、南北60メートル)や、推古天皇陵とされる山田高塚古墳(東西66メートル、南北58メートル)だが、一辺70メートルの小山田古墳の規模はこれらを上回る。木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「これだけの規模は天皇の墓としか考えられない」と述べ、舒明天皇の墓との見方を示す。

 「日本書紀」は、舒明天皇の遺…

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