『震災6年 前川裕子さんからのメッセージ(岩手県宮古市)』
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被災地からのメッセージ2017(7)

 東日本大震災では、全国の多くの医療者が、岩手、宮城、福島の3県に支援に入った。多くは短期支援だったが、中には被災地の医療機関に勤務医となった人たちがいる。岩手県立宮古病院の循環器内科医、前川裕子さん(41)もその一人だ。宮古市は、岩手県内でも、人口当たりの医師数が一番少ない地域。この6年、宮古の医療はどう変わってきたのか、今抱える課題は何かを聞いてみた。

がまんしてから来る患者

 宮古病院は、山の中腹にある。ここは津波の被害を受けず、医療の提供が途切れることはなかった。しかし、宮古地域は、元々医師数が少ない岩手県の中でも、最も少ない地域だ。岩手県医療政策室によると、医療施設で働く人口10万人当たりの医師数は、震災前の2010年度の調査の全国平均219.0人、岩手県平均181.4人に対し、宮古地域は105.0人だった。震災後の2014年度の調査では、全国平均233.6人、岩手県平均192.0人、そして宮古地域は118.7人だった。全国平均の半分以下だ。岩手県医療政策室の担当者は「全国平均と比べると、格差は拡大している」と言う。

 それでも、新しい動きがあった。その一つが、前川さんの赴任や、岩手医大からの新たな循環器科医師の派遣だ。

 前川さんは、東京都内にある循環器診療が強い榊原記念病院に勤務していた。宮古病院に来たのは2011年6月。徳島県出身の前川さんは、全く縁のなかった地域だ。それから6年近くが経ち、毎日、患者を診る中で方言もほぼ理解できるようになった。

 今、宮古病院の循環器内科は、常勤医4人となり、入院患者約30人、外来で一日約50人の患者を診ている。東京の病院と宮古の病院で、患者を診てきた中で、違いを感じることがあるのかを聞いてみた。

 「宮古病院の方が患者さんの年齢層が高く、90歳以上の患者さんも普通にいます。人にもよりますが、がまんして、がまんして、どうしようもなくなって病院に来られる患者さんが多いですね。(通院のための)交通の便に問題があることが背景にあると思います」

循環器内科の常勤医不在期間もあった

 前川さんは2012年の朝日新聞の取材に、「私のようにぽーんと来るのは、ハイリスク、ハイリターン。一番いいのは大学の医局が安定的に(医師を)配属してくれること」と話していた。それから4年、宮古病院の循環器内科を巡る状況は変わったのか。

 「変わりました。2013年から岩手医科大学の循環器科の医局から医師2人を送ってもらえるようになって、最大で常勤医が5人になった時期もありました。今も医大からの派遣医師が続いていますので、循環器診療がずいぶん充実しました。そのときの自分の願いがかなったんだなと思っています」

 実は、宮古病院の循環器内科は、前川さんが東京で勤務していた榊原記念病院の先輩医師(現在は退職)が、2011年1月に赴任するまで、長い間、常勤医がいなかった。前川さんによると、2007年に常勤医が引き上げられて不在になり、外来診療だけ、非常勤医師が来ていた。循環器の心不全や狭心症の入院患者は、非常勤医師のアドバイスを受けながら神経内科や消化器内科などの専門外の医師が担当していたという。

 短期的な支援でなく、宮古病院に常勤で勤務する選択をしたのはなぜか。

 「震災後に被災地に行こうと思った時には、期限は全く考えていなかったんですね。とにかく、ただ事ではないことが起きていて、1日や2日、視察に行ったり、見に行ったりしただけでは片付かないような悲惨な状態になっているところで、長期的な支援をしようという漠然とした思いがありました」

 実際に宮古市に来て感じたことがある。被災地というだけでなく、元々ここが医師不足地域ということだ。日本は、大学病院や総合病院が多い東京などの大都市圏や都道府県庁所在地に医師が集中する傾向がある。また、「西高東低」と言われるように、西日本に医師や病院のベッドが多い。東北や北海道は、道県庁所在地を除けば、最も医師が少ない地域だ。

 「へき地医療というか、地域医療の医師不足をだんだん感じるようになり、被災地医療支援という思いだけなら、1年ぐらい経てば(病院内も地域も)落ち着いてきたし、後は(地元にいる医師たちで)何とかなるんじゃないかと考えて辞められたと思います。診療をしている中で、地域医療、特に循環器診療では宮古地域は医師不足で、自分が循環器医の端くれなら何とかしなくちゃいけないという思いに変わり、1年じゃ帰れないなと思うようになりました」

 勤務環境も大きく変わった。

 「東京の病院に勤めていた時は、毎日朝から晩まで心臓カテーテルの患者の治療が入っていたり、救急外来に呼ばれたりとか、とにかく忙しく次から次へとやることがあって、日々、患者さんが予定入院だったり、緊急入院だったりして目の回るような忙しさがありました。昔から病気だけでなく、患者さんの思いを知りながら治療をしていきたいと考えていたので、忙しさの中でも患者さんに寄り添おうと努力をしていましたが、なかなかできないもどかしさもありました」

 「患者さんに深く寄り添うことができ、自分に対する信頼感を寄せられているなという充実感はあります」

 ただ、宮古病院のような地方の病院に、継続的に若い医師が赴任してくるようになるには課題も見えてくる。

 「最近は、専門医制度の関係で、(資格が取得できる)教育施設の病院しか行きたくないと若い医師が思うのは当然のことだと思います。宮古病院に限ったことではありませんが、大学病院の教育関連施設の認定条件を緩くして若い医師が地方の病院で研修しやすいような環境にしないと、医師不足の解消につながらないと思います」

消えぬ心の痛み

 震災直後は、心のケアが重要だと言われた。それから6年が経ち、日常の診療の中で前川さん自身が心の痛みを感じることはあるのだろうか。

 「毎日毎日、この人はどうなんだろう、この人はどうなんだろうと思っていたら、自分の心もつぶれてしまうのですが、最近も重い心疾患と腎疾患を抱えた末期の患者さんがいました。ご主人さんが(津波で)行方不明のままなんだそうです。家業は漁業で、ご主人さんは地震発生直後、一度避難したそうですが、従業員の安否や船のことが心配になって見に行ったらしいんですね。それで従業員は助かってご主人さんは流されてしまった。その患者さんは盛岡市内の病院に入院していて難を逃れたそうです。そういう話をとつとつとされて、『あきらめているけど、いまだに突然戻ってくるような感じがするんですよね』と言っていた。終わっていないんだなって思いました」

退院先がない

 宮古市の人口は3月1日現在、55052人。高齢化率は35%だ。ここにある基幹病院から見た地域の課題を挙げてもらった。そこで、前川さんが第一に指摘したのは、高齢患者の退院後の支援だ。

 「退院した後の生活をどうしたらいいんだと、医療者側と地域の福祉関係者、家族との関わりで悩むことが多いです」

 高齢者は、入院すると日常生活動作(ADL)のレベルが落ちることが多い。例えば、入院する前は、歩いてトイレに行けるように自立していた人も、入院して何日かすると寝たきりになってしまう人がいる。治療によって病状が改善し、リハビリをしても「トイレまでよろよろ歩きながら行けるかどうかといった程度のADLのレベルまでしか戻らない人がいます」と指摘する。

 「ご家族はそれぐらいしか歩けないのなら、『家につれて帰れない』『介護ができない』という人も多いですね。宮古病院は今のところ急性期病院(という役割)なので、どこまでかかわっていけばいいのか。リハビリや療養をする転院先の後方病院もだんだん縮小されてきていし、介護施設も長期入所だと入所待ちが多いので、ADLが落ちてしまった高齢の患者さんをどこでどう生活支援していくのか、悩むケースが何例もあります」

 今は、どう対応しているのか。

 「例えば、90代の夫婦による老老介護で自宅への退院が難しい場合は、なんとかリハビリのできる後方病院への転院までは対応しています。あとは、施設のショートステイをつないで対応することもあります。病院の医療連携部門と患者さんのケアマネジャーさんが連携して、とりあえず、ショートステイを利用するようにして退院されていく患者さんもいます」

 医療や介護サービスを必要とする高齢者の増加の一方、老老世帯や高齢者の独居世帯の増加による家族介護の限界、介護サービスを提供する人材不足などといったことによる、退院先がないという問題は、都会のベッドタウンで起こることが、先んじて起きているともとれる。

 宮古病院でも、課題を解決しようと、住み慣れた地域で在宅医療や介護サービスを受けながら暮らせるように支援する地域包括ケア病棟を導入するという。

 「どうしても、家族は仕事があるため、日中、おじいちゃん、おばあちゃんを独りにしてしまう。ヘルパーさんに来てもらうにも、週何回、1日1時間だけしかこないので、日中心配とおっしゃる方が多いですね。在宅医療を充実させようとしてもマンパワーが足りないですよね」

 「在宅医療を受けられるようにした方がいい患者さんはたくさんいますが、寝たきりだけど通院が必要な方だとか、今の自分がそこまで担えるかというと無理ですし・・・」

どこかで折り合いつける時期も

 前川さんの2016年の寄稿文では、最後に「街の復興、医療の復興、心の復興に終わりはない」と書かれていました。

 「やっぱり、終わりはないと思います。自分自身がどうかと言われると、どこかで折り合いをつけなくてはいけないとも思っています」

 

■■前川裕子さんからのメッセージ■■■

 被災地からのリレーメッセージのお話を今年もいただいた。文章を寄せるのは今回で3度目となる。この1年間で自分の状況や思考、取り巻く環境がどう変わったか考えたが、特別な変化はない。病院の窓から望める太平洋は青く静かで、山々の木々もその季節ごとに色を変えている。夜には降ってきそうな星くずが空にちりばめられ、本州最東端の朝日は燃えるように輝いている。精いっぱい患者さんと向き合い、地域と向き合い診療に携わり、日々を懸命に走り続けてきた、そんな1年であった。

 

 しかし、変わらないというのは本当でもない。昨年8月30日の台風10号の上陸で、宮古地域は21世紀になってから2度目の被災地となった。津波の時のように街が冠水した。津波と異なるのは、今回は内陸や山側で被害が甚大だったことだ。土砂崩れや橋・道路の崩落などで多発的に道路が寸断され、完全に孤立した集落が発生した。その集落に自宅がある職員は、道路が復旧するまでの1週間余り、病院や空き宿舎に寝泊まりを余儀なくされた。台風直後の街はこの目を疑う光景だった。津波を経験した地元の人々は当時のつらい思いがフラッシュバックするのではないかと心配になった。

 避難所生活が長引き食生活が乱れてしまい糖尿病が悪化した患者、仮設住宅で抑うつ状態となり気力を失い通院ができなくなった患者、不潔な環境下で消毒などの物品もなく足の潰瘍(かいよう)が悪化した患者・・・震災後を思い起こさせる状況であった。診察時間が長引いても、患者さんの話を傾聴するようにした。

 今は道路も復旧し日常生活が戻り、笑顔も戻っている。笑顔は希望のしるしだ。

 

 インタビューで、沿岸の被災地の希望とは何かと聞かれ、答えに悩んでしまった。人口の流出、高齢化、産業発展の停滞など、多くの問題が浮き彫りになる中で、地域の人々はどんな希望を持って生活しているのだろう。そして私のたどり着いた答えは「平穏であること」であった。未曽有の震災により突然日常を奪われ、不穏な日々が続いた人々にとっては平穏な日々が何よりの希望であり願いなのではないか。職場やよく行く飲み屋、街で見る人々の表情がそう語っているような気がする。私は幼少期に見たテレビアニメの影響で、何かしらよかったと思えることを一日一つでも見つけようとする「よかった探し」をするのが癖だった。宮古に来てからは、大小様々な事件はありつつも一日が無事に終わるときに感謝する。よかった、と毎日思える。当たり前の日常をいとおしいとすら感じるようになった。

 そんな中で最近出会った患者さんとのエピソードが忘れられない。そのエピソードは動画インタビューで語らせていただいた。震災から6年。残された人はずっと癒えない傷を心に抱えて生きており、日々が平穏であることで少しずつ傷を受容していくのだということが痛切に心に突き刺さった。

 

 第二の故郷、宮古にまだしばらくとどまることを決めた。もはや被災地支援という押し売り的な思いではない。笑顔の押し売りはしているかもしれない。震災により医療の厳しさが露見したこの地域を支えたいという思いである。人々の心、身体、生活に寄り添える医師、そして人の痛みがわかり喜びをわかる人間でありたいと願う気持ちはいつまでも変わらない。

<アピタル:東日本大震災・被災地からのメッセージ>

http://www.asahi.com/apital/special/shinsai/(岩崎賢一)

岩崎賢一

岩崎賢一(いわさき・けんいち) 朝日新聞記者

1990年朝日新聞社入社。くらし編集部、政治部、社会部、生活部、医療グループ、科学医療部などで、医療を中心に様々なテーマを生活者の視点から取材。テレビ局ディレクター、アピタル編集、連載「患者を生きる」担当を経て、現在はオピニオン編集部。『プロメテウスの罠~病院、奮戦す』、『地域医療ビジョン/地域医療計画ガイドライン』(分担執筆)