沖縄の米軍基地問題を訴え続けた元沖縄県知事の大田昌秀(おおた・まさひで)さんが12日、呼吸不全と肺炎のため死去した。92歳だった。1995年に米兵による少女暴行事件が起きた当時の知事で、米軍用地の提供に必要な手続きを拒み、米軍普天間飛行場の返還合意などを引き出した。

 通夜は13日の終日、告別式は15日午後2時から沖縄県浦添市伊奈武瀬(いなんせ)1の7の1のいなんせ会館で。喪主は妻啓子さん。

 1925年6月12日、沖縄県・久米島生まれ。沖縄師範学校の学生だった45年、鉄血勤皇隊員として沖縄戦に動員され、多くの学友を失った。戦後、早稲田大学を卒業後、米国シラキュース大学大学院に留学。68年から琉球大学法文学部の教授(ジャーナリズム論)を務めた。

 90年の知事選に立候補し、4選を目指していた故・西銘順治氏を破り初当選。2期8年にわたって務めた。95年9月に米海兵隊員らによる少女暴行事件が起きると、地主が契約に応じない米軍用地を政府が強制使用するために必要な手続き(知事の代理署名)への協力を拒否。10月には、事件に抗議する県民総決起大会に参加し、米軍基地の整理・縮小と米軍人らの容疑者を特別扱いする日米地位協定の改定を求めた。

 沖縄県宜野湾市の住宅密集地にある普天間飛行場の危険性を訴え、96年の日米両政府による返還合意につなげた。本土と沖縄の経済格差の解消も求め、政府から基地を抱える地域を中心にした振興策を引き出した。

 しかし、普天間返還問題で98年、日米両政府が計画していた名護市辺野古沖への移設を拒否。政府との対立を深め、98年秋の知事選で自民党が擁立した稲嶺恵一氏に敗れた。01年の参院選比例区に社民党から立候補し初当選。1期務め、07年に引退した。その後も、沖縄戦の研究や基地問題での提言を続けていた。

 知事時代の95年には、沖縄戦などで亡くなった戦没者24万人以上の名を日本、米国などの国籍に関係なく石板に刻んだ「平和の礎(いしじ)」を糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園内に建設した。

 沖縄戦や戦後の米軍による沖縄統治の研究者としても知られ、政界引退後は那覇市で大田平和総合研究所を主宰。沖縄戦の「集団自決」をめぐる教科書検定問題では、旧日本軍が強制したことを裏付ける新証拠を探し出すために渡米。米国公文書を調査するなど活発な研究、言論活動を続けていた。

 「沖縄のこころ」「近代沖縄の政治構造」「拒絶する沖縄」「総史沖縄戦」など著書も多かった。