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【1999年10月27日朝刊37面】

 一九九五年九月、大田昌秀知事は、米軍用地を強制使用するのに必要な代理署名を拒否した。米軍基地の整理・縮小を求める県民総決起大会は約八万五千人の記録的な参加者で埋まった。東京では村山政権が基地問題の新たな枠組みづくりに乗り出したものの、九六年一月に突然、退陣を表明した。沖縄の基地問題の命運は、橋本政権が握ることになった。(編集委員・外岡秀俊)

 

 ◇「反基地」行く手の険しさに思い

総決起

 九月二十八日の県議会で、私は代理署名拒否を正式に表明した。反響はすさまじかった。県内では、拒否を支持する世論が盛り上がり、十月二十一日に宜野湾(ぎのわん)で県民総決起大会が開かれた。

 訪中していた私は、その日、那覇空港に降り立った。車で会場に行ったのでは間に合わない。秘書課が手配した高速チャーター船に飛び乗り、海路、宜野湾を目指した。

 船内で、秘書課が準備した長文のあいさつを読んだ。私は「これはもういい」といって案文をポケットにおさめた。今は、自分の本心を語ろう。その方が、県民の胸にじかに響くだろう。その確信があった。

 演壇に立つと、自然に言葉が口を突いて出た。私はまず、行政を預かる者として、本来一番に守るべき幼い少女の尊厳を守れなかったことについて、心からおわびした。「これまで沖縄は協力を余儀なくされてきた。今度は日米政府が協力する時だ。二十一世紀に向けて、県民の期待にこたえられる夢と希望の持てる沖縄づくりに努力したい」

 参加者は八万五千人。復帰以来、最大の数だった。壇上には、その後、県知事選で相まみえる稲嶺恵一県経営者協会長、自民党の県議会議長の姿もあった。だが、保革を超えた運動の盛り上がりと熱気は、出発点でしかない。これまでも、島ぐるみの反基地のうねりはあったが、日米交渉の過程で沖縄は、結果的には今まで以上の重荷を背負わされるという歩みを繰り返した。今度はそうしてはならない。会場の熱気とは裏腹に、私は静かにさめたまま、行く手の険しさに思いをこらした。

 <証言 吉元政矩・元沖縄県副知事> 代理署名を拒否すれば、国に提訴される。自治体が国家権力と争うのは大変なことであり、裁判に入ること自体が大きな重みと苦悩を伴う決断だった。予算請求が削られたらどうするかをすべてチェックし、申請中の事業まで、関係部長を呼んで詳しく協議した。もし少女事件と県民集会がなかったら、あれだけ広範な県民の支持を得られたかどうかは分からない。少女事件で、県の事務方も一丸となって拒否を後押しできるようになったのは事実だろう。

 

 ◇「革新」の難しさ、村山氏に…

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