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走り、打った 鳴門の渦潮

 〈エライヤッチャ〉 6試合に奪った三振83。徳島商板東英二(中日)の力投は、10年前、第40回大会の花だった。とくに高校野球ファンの印象に残るのは、魚津の村椿と18回を投げ合って引分けた準々決勝の延長戦だ。「おかげで夏がくると、いつも僕という投手がいたのを思い出してもらえる。こんな幸福な野球生活はない、と自負している」話す板東の顔がいきいきと光る。

 あの年、徳島の町は、甲子園で徳島商の試合が始ると、人通りもとだえ、テレビで、ラジオで、われらが板東の投球に一喜一憂。優勝をのがしたけれど、名物阿波おどりの「エライヤッチャ」で、その活躍をたたえたという。

 先輩たちの見た板東――「甲子園では本当に速かった」昭和7年から17年まで監督をして、いまの基盤をつくった稲原幸雄(社会人野球四国理事長)。「バネがあって、これほど投手としての天性を持ったものは少ない。頭は切れすぎるほどで、実によく気がついた」野球部長の森建二(徳島県高野連理事長)この板東を育てた監督須本憲一は、二月のはじめ、十二指腸かいようで世を去った。

 〈鎖国から開花へ〉 徳島商が初めて夏の甲子園へ出たのは昭和12年。投手の林義一(阪神コーチ)をはじめ、宮本利学(故人)藤井一郎(国鉄)島田七郎(富士製鉄)ら。監督の稲原は、勝つためにはまず点を取られないチームを、と全力をあげた。このとき、第1回大会の予選に参加してから23年目。香川、愛媛勢の圧倒的な強さに押えられた長い苦難の時代を、稲原はこう振返る。「なにしろ無死の走者をバントで送ったら、何をしよるんで、とヤジられた。それほどの野球知識しかなかった土地柄」

 「大正の終りに、テニスの徳島中と徳島商の対抗戦がもつれ、コートへ石を投込んだことから、スポーツ全部の対外試合が禁じられた。この鎖国が技術の進歩をはばんだ」と石丸脩二(岡山鉄道病院)。姫田綾太郎と石丸がバッテリーを組んだ徳島中は、昭和5年四国大会の準決勝で、全盛の松山商に2―1で惜敗。ほかに徳島中からは大松仁(藤倉電線)笠屋義雄(日通)ら。

 徳島商に一度咲いた甲子園の花は、後輩を刺激して15年の26回大会に再び花を咲かせる。蔦文也(阿波池田高)大島茂治(徳島新聞)岸本守夫(日通)らだ。越えて17年、文部省が主催して甲子園で行なった体育大会で、1回戦から決勝までの4試合を1点差で勝って全国優勝。主将が須本憲一で、投手は加藤順三(四国電力)。戦後は広野三兄弟の孜(つとむ=八幡製鉄)翼(まもる=自営)功(西鉄)が有名。

 〈うずしお打線〉 25年の32回大会は、初出場の鳴門が決勝まで進み、同じ四国の松山東に12―8で敗れた。だが評判はもっぱら鳴門の試合ぶり。当時の朝日新聞大阪本社運動部長芥田武夫はアサヒスポーツに「鳴門の選手が守備につくとき、守備から引揚げるときの迅(じん)速でキビキビした動作は実に模範的なもので、試合態度の立派さは23チーム随一だった」と書いている。いまでこそ攻守の交代に全力で走るのが甲子園の常識になっているが、当時としては全くの型破りで、しかもよく打った。

 「体に応じたバットの持ち方をして、鋭く、ライナーをねらえと教えた」と国鉄撫養駅長だった監督の松田速馬(はやま=近畿日本ツーリスト)。岡本善雄(大薬営業部長)主将の話も面白い。「準々決勝の米子東戦で、7回、一気に7点をとって8―5と逆転したが、しまいに中堅手が足をもつれさせ、走れなくなった」と。この回5安打のうち4本が長打。4試合の打率3割7分2厘で、二塁打13、三塁打5。鳴門の名勝渦潮になぞらえて“うずしお打線”の異名をとった。活躍した選手に大久保英男(国鉄)近藤義生(鐘紡)栗橋博(自営)ら。

 この鳴門が第1回大会の予選から出た撫養中で、今の撫養高は撫養高女と撫養商の合併校。東京六大学の首位打者、長池徳二(阪急)と秋元国武(日石)を法大から生んだ。

 ほかに39年春の選抜大会優勝校海南。高知との県境に近い海と山にはさまれた辺ぴな学校で、生徒に自信を持たせようと27年につくった野球部。選手とともに土にまみれて練習を続けた監督市川隆夫。教頭になったいまも校庭に立って指導する。上田利治(広島)西山英人(電電近畿)尾崎正司(前西鉄)が教え子。(1968年6月11日掲載)

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