[PR]

まち望んだ陽光浴びて

 〈無私道〉 青と緑と太陽の国。その明るい日ざしが、やっと高校球界にも輝いた。昭和29年8月5日。高鍋高、大分商を破って代表となる。クイズにもなった全国ただ一つの甲子園不出場県の汚名が消えた。

 パイオニアの名は。画伯平原美夫監督。57歳。宮崎師範五年のとき、県内チーム相手には無失点という快速球投手。帝展、一水会入選の絵筆をノックバットにもちかえて30年。飛田穂洲が“甲子園に来たら土下座する”と約束。その土下座こそなかったが、かねて贈った書が「無私道」。おのれを捨てて野球一本に徹した心意気を、ほめたたえた。

 右の一本足打法でならした元大洋の黒木基康、このときの四番打者。大阪・十三(じゅうそう)でレストランビル経営。投手杉尾貞邦はそこの課長。猛スライディングで泰三マンガになった堀北亨は石川島播磨重工業東京本社。

 〈温室育ち〉 明治29年ごろからはじまった県の高校球界、甲子園の予選参加は第三回の大正6年。以来地味な努力が続いた。年間平均気温一七度、恵まれた風光、純朴な県民性。その温室育ちが、人を押しのけてという気迫を薄れさせていた。民話のなかにも、いもがらぼくと(イモがらの木刀)、よだきごろ(怠け者)、日向ぼけ、が何回となく顔を出す。

 東京六大学選手第一号が喜多勉。米国タコマの生れ。よび名はべん。延岡中から佐賀高校、昭和14年東大へ。当時、球の早さでは喜多に負けなかったのが宮崎中(現大宮高)の黄金時代を築いた仲田俊夫。喜多は東京目黒、仲田は都城と離れてはいるが、ともに保健所の衛生課長というのも奇しき縁。

 〈新名学級〉 野球の虫の一人。新名●(にいなあきら)宮崎商監督。同志社時代三塁手として関西六大学四連勝(昭和16年春から)に貢献。昭和21年インドネシアから復員した翌日、都市対抗予選にかり出されて、野球との宿命を感ずる。つねに自宅に部員十数人を下宿させての“新名学級”校庭にいつとはなしに住みついて、野球部のアイドルとなったカラスを「やたのからす」に見たてて東征をねらう。

 谷村豊秋、43歳。西南の役、密使となって熊本城の難を救った谷村計介の孫。31年選抜都市対抗で鹿鉄を率いて優勝。宮崎中の後輩、投手永井海、強打の大隅健一を自由に駆使した。永井はいま鹿鉄総監督、谷村、大隅らはいずれも国鉄マンとして鹿児島にいる。

 〈投手一途に〉 戦後の混乱期、一投ごとに球がゆがむ。プレートに打ちつけてまるくする。台風にたたきのめされながら、また立直る宮崎人の心境を思い出すと大宮の堂園悦男投手。父の厳命で七高を受験したが、歴史をボイコット、あくまで野球一途に明大へ進んだ。住友金属大阪特殊鋼課長。同じ明大には高鍋から用害三次捕手、岩岡保宏遊撃手、立教大には大宮の神野利男らが進学、宮崎を全国レベルへ引上げるきっかけをつくった。用害は日本生命旭川支社、岩岡は大洋のマネジャー、神野は母校監督をつとめて宮崎青果の重役だ。

 高鍋の初出場は各チームにめざめと自信を植えつけた。第四十一回、その春、選抜優勝の中京商を完封した高鍋、投手永友延昭はハワイ遠征をかざる。

 プロへの進出も目立つ。日向ぼけをけとばした若者たちだ。セ・リーグ昨年の新人王、サンケイの武上四郎は大宮。近鉄には、手押し車の友を助けて「朝日明るい社会賞」の小川亨(宮崎商)や清俊彦(高鍋)。東映でがんばる岩下光一(大淀=現宮崎工)ら十指に余る。

 〈命をかける〉 忘れられない陰の力。この四月妻高校長になった後藤賢三郎。大宮時代に高野連理事長十年、試合倍増プラン、他県へのコンプレックス解消に力をみせ、現理事長雨田正(大宮)とともに非専門家の冷静さを生かした。

 命をかけた男、高崎栄、前日南高監督、昨年秋の九州大会予選で倒れ、不帰の客となる。行年41歳。妻敏子は「桐生高の故稲川監督のテレビドラマをみて“オレもあのように死ぬっちゃねどかい”(死ぬのではなかろうかの意)と申していましたが―。でも本望でしょう」と顔を伏せた。六月には追悼試合の計画もある。(1968年4月19日掲載)

●は「日」の下に「向」

こんなニュースも