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 (2001年2回戦 日南学園6―4玉野光南)

 五回無死。日南学園の寺原隼人が、先頭の右打者に投げた5球目だった。外角にそれた直球が捕手のミットに収まった瞬間、甲子園のバックネット裏でどよめきが起きた。

 2001年8月16日、玉野光南(岡山)との2回戦。この回から救援したエース右腕は、歴史を塗り替えた球速を知らずにいた。「僕たちの時代は(球速が)球場に表示されなくて、出たかも分からない。球場が盛り上がっている実感はあった」。スピードガンを構えるプロ野球のスカウトらがうなった1球は、テレビ放送で当時の甲子園最速「154キロ」を表示していた。

 「記録を抜くために甲子園に行った」。横浜の松坂大輔(ソフトバンク)らが当時持っていた甲子園最速記録の151キロ超えを大会前から公言していた。だが、初戦の四日市工(三重)戦ではタイ記録止まり。「1回戦で抜く予定を立てていて、抜ける自信があったのに抜けなくて悔しかった」。2カ月前の練習試合で非公式ながら155キロを出していたからこそ、焦りもあった。「松坂さんは、僕たちのスーパースター。その記録を抜けるチャンスに必死でした」

 再挑戦となった2回戦は、満身創痍(まんしんそうい)だった。先発は回避し、発熱で「点滴も打っていた」という。だが試合中、ブルペンで投球練習を始めると、観客席から大きな拍手がわき起こった。「僕を見に来てくれている」との感覚を覚えた。

 救援した五回は無失点に抑えた。しかし、球に本来の切れは無く「コントロールもバラバラ」。バットを短く持ち、速球を狙う相手打線に六回に3点を奪われ、逆転を許してしまう。

 味方が同点に追いつき、4―4の九回裏。3四球などで2死満塁のサヨナラのピンチを迎える。何度も空を見上げ、息をついた。フルカウントから「直球を置きにいった」球で、何とか三ゴロに。直後の十回に勝ち越して6―4で競り勝った。

 この年の日南学園は、大会ナンバー1と呼ばれた寺原を筆頭に控えも完投能力のある投手がそろい、井手正太郎(元DeNA)を軸に打力も備えていた。宮崎勢初の全国制覇も期待されながら、準々決勝で横浜に惜敗した。

 「あの時に154キロ出して、松坂さんの記録を抜いて名前を覚えてもらった」と寺原は振り返る。入学当初は自分より球の速い投手もいたが、「徐々にスピードが速くなって、楽しくて、出せるところまで頑張ろう」と球速へのこだわりは日々強くなっていった。

 球速を狙う時にだけ、仲間に向けて出す「サイン」があった。マウンド後方にある滑り止めのロージンを、普段は三塁側に置くが、狙う時に一塁側に動かした。「チームメートになんか合図ちょうだいと言われて。(玉野光南戦でも)何回かやったと思うけど、その時に154キロはたぶん、出ていない」

 「甲子園最速」の称号は、6年後に奪われた。04年の選抜大会から高校野球でも甲子園のスコアボードに球速が表示され、07年の第89回大会で仙台育英(宮城)の佐藤由規(ヤクルト)が155キロを出した。寺原は苦笑する。「抜かすのはえーよと思いましたよ。この記録はなかなか抜けないと思っていたけど、150キロを投げる高校生がばんばん出てきた」。12年夏の岩手大会では、花巻東の大谷翔平(日本ハム)が高校生史上初の160キロを投げた。

 30歳を過ぎた今も、寺原はプロの舞台で150キロを超える球を投げ続けている。「自分の究極になるものを目指していけば、もっと野球が楽しくなる」。聖地に刻まれたあの1球は、自身の道を切り開く1球でもあった。(甲斐弘史)

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 寺原隼人(てらはら・はやと) 宮崎市出身。2001年夏、日南学園の主戦で8強。プロ野球ドラフト会議で4球団が1巡目指名。福岡ソフトバンクホークス投手。