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(20日、高校野球 東海大菅生9―1三本松)

三本松・三木裕大

 五回終了後のグラウンド整備が終わり、マウンドへ向かった。投げるわけじゃない。ボールボーイとしてロージンバッグを取り換えるだけ。ちょっとプレートを踏んでみた。軟らかくて、高級そうだ。バックネット裏には、すごい数の観客。たった数秒だけど、マウンドから見える景色を3試合で体感できた。

 2年間、もがき苦しんだ分のご褒美かな、と思った。

 1年の夏、横手投げの右腕として背番号18をもらった。日下監督は「(現エースの)佐藤と二枚看板でいける」って思ってくれていたみたい。捕手の渡辺も「俺らの代のエースは、佐藤じゃなくて三木かも」と期待してくれた。

 大会後の紅白戦で、すべてが狂った。

 死球、死球、死球……。6人の先輩にぶつけてしまった。怒られはしなかった。ただただ、申し訳なかった。

 次の練習試合、思いもしない変化があった。130キロ近くあった直球の球威がガクンと落ちていた。渡辺からは「20キロくらい落ちた。腕が振れていない」と言われた。ブルペンでは普通に投げられるのに、打者に向かうと、そわそわする。投球フォームはどんどん崩れていった。

 試行錯誤の日々が始まった。元のフォームを求め、練習ではネットを相手にボールを投げ続けた。帰宅後も時間が許す限り、タオルを振ってシャドーピッチング。テイクバックを小さくしたり、体が開かないように三塁方向を見たまま本塁へ投げてみたり。そうしたら、今度は本塁を見て投げられなくなった。悩めば悩むほど、理想の投げ方から遠ざかった。

 その冬、監督から「イップス」の治療法を教わった。精神的な原因で体が思うように動かせなくなる障害。薄々気づいてはいたけど、心の問題だとはっきり自覚した。でも、どんなに練習しても、恐怖心は消えなかった。マウンドでは、「頼む、ちゃんと(ストライクゾーンへ)行ってくれ」と祈りながら投げた。「毎日が苦しくて、地獄でした」

 3年の春先、練習試合で投げた。2イニングで2桁失点。四死球はいくつ与えたか覚えていない。野球をやめたくなった。試合後、自宅の最寄り駅まで車で迎えにきてくれた親に「遅い」と八つ当たり。翌日、監督に外野手への転向を申し出た。やけになっていた。

 1カ月半ほどで投手に戻った。やっぱり、途中であきらめたくなかった。監督から「メンバーに入れないかもしれないぞ」と言われた。その通りになった。最後の夏は、ベンチの外から見つめた。甲子園には仲間に連れてきてもらった。

 2日の甲子園練習。打撃練習でマウンドからレギュラー陣に投げた。「危ないので、全力は無理でした」。イップスは克服できなかった。ボールボーイとして、ベンチ横から試合を見た。やっぱり悔しさしかない。あのマウンドで全力で投げたかった。これが本音だ。

 本気の野球は、これで一区切り。「自分でも、よく耐えたと思う」。父の塗装業を手伝うため、建築関係の専門学校に進むつもりだ。資格の取得は難しいだろうし、勉強は楽ではないと思う。「でも、イップス克服の苦しさに比べたら。何にでも向き合えると思います」。もがいた分だけ、心は強くなった。

     ◇

 三木くんは試合後、「これからはイップスのことを考えなくてもいい。楽になりますね」と語っていました。筆者も大学の野球部で重度のイップスに悩まされました。右投げから本気で左投げに変えた時期もありました。今では、当時の仲間との笑い話になっています。いつか三木くんにとっても、この努力がいい思い出になる日がくることを願っています。(小俣勇貴