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町も二分のライバル校

 〈七つの栄光〉 長い球史をそのままに、古びた深紅の大優勝旗。だれかがわしづかみにすると、せきを切ったようにみんながとりすがった。日やけした顔がくしゃくしゃになって泣く。昭和33年7月、第四十回大会の県予選決勝で広島商は尾道商に敗れた。主将の迫田穆成(現広島商監督)が39本の竿(かん)頭綬をあらためる。なかに大正13年広島商、昭和4年第15回大会広島商、同5年第16回大会広島商、同9年第20回大会呉港中、そして同32年第39回大会広島商。ここに五つの栄光を見た――。加えて大正15年第3回大会広陵中、昭和6年第8回大会広島商と春に咲いた選抜の花。夏も春も、そのいずれもが激しいライバル意識がもたらした金字塔である。

 〈ライバル意識〉 明治から大正にかけて「ベース」と呼んでいた広島の野球は広島中でスタートした。もっとも古い記録が明治25年秋の広島中(現国泰寺高)18―9広島高師(現広島大)。広島中の無敵ぶりは大正の初めごろまで続き、やがて対抗意識の中で栄えていく。宿敵、広島商―広陵。さしずめ広島の早慶戦であろう。

 広島商の創部が明治33年なら広陵中はしばらくあとの大正4年。「打倒広島商」とまず広陵が追っかける。甲子園への足跡をみても、大正13年の第10回大会で広島商が全国制覇すると、広陵中はその翌年から選抜大会へ五年連続出場。二年目の第3回大会では見事優勝した。夏の大会でも昭和2、3年に広陵中が甲子園へのキップを手にすると、広島商が奮起、4、5年には連続優勝、というように。「町が二つに割れていた」とは連続優勝をもたらした石本秀一(元広島監督、解説者)の話。

 広陵中が春に優勝したときの総帥、広島市仁保一、二丁目の町内会長山崎数信(元県高野連審判長)は「市場や散髪屋さんもちゃんと色分けされていた。ライバル校の客だと門前払いですよ」。大正15年の山陽大会ではファンの切腹事件まで引起した。準決勝で柳井中と対戦した広陵中のあるファンが「広陵が負けたら、ワシャあ腹を切る」といきまいた。結果は1―2で広陵中の負け。引込みがつかなくなって切腹――命はとり止めたものの本当に腹を切ったのだからおどろく。当時の熱狂ぶりがうかがえる。

 石本が徹底したスパルタ教育で精神野球を説いたのに比べ、ハワイ育ちの山崎は自由にやらせる対照的な野球。石本が「根性を養え」とやった日本刀の刃渡りはいまや伝説的でさえある。両校の花々しい活躍は他校に大きな励みをあたえ、県球界の水準をどれほど引上げたことか。

 〈監督八人男〉 こうしたなかで多くの名選手を輩出する。とりわけプロ球界へ八人の将。石本は二代目阪神監督、彼のノックの雨で育ったひとりにご存知鶴岡一人(南海監督)。のちの大選手、名監督も、アダ名が「オニ」の石本にしかられ、グラウンドを逃げ回ったそうだ。「球界の彦左」元国鉄監督浜崎真二は二年生のとき友人の事件のまきぞえで神戸商へ転向、「小さな大選手」は神戸商―慶大などで鉄腕をふるう。兄熊一は広陵中創部時の投手。広陵からは岩本義行(元近鉄監督)白石勝巳(元広島監督、巨人ヘッドコーチ)門前真佐人(元広島監督)濃人渉(東京監督)。

「神主さん」岩本と門前はともに三次中からの転校組。白石は生れが今治市。頭に死球をくっても平然と一塁へ歩いた豪気の岩本、逆シングルの名手白石と広陵の先輩は個性が強い。

 呉からは呉港中の元阪神監督藤村富美男(東映コーチ)。彼の右腕は昭和9年の第20回大会で大優勝旗をかちとった。決勝の相手は川上哲治(巨人監督)のいた熊本工。2―0の決勝に朝日の批評は「藤村、鬼神の投球」と激賞している。呉港中の黄金期は昭和7年から始り、この年から六年甲子園へ連続出場。9、11、14年には選抜大会にも選ばれている。藤村で勝ったとき、呉は大変な騒ぎだったが、甲子園の浜へ引船で乗込んだ応援団もまた狂喜した。もちろん、広島商、広陵中をなぎ倒しての全盛期だった。

原爆の野に球児健やか

 〈原爆球児〉 「原爆」あの日、七つの川に育てられた広島は一瞬のうちに焼け野原となり、約20万人もの生命が「核」の犠牲となった。被爆後、町は地獄絵図そのままに「10年間は草木もはえまい」とさえいわれた。こうした悲惨な町に育った球児たち――。

 梶野勲。23歳。第44回大会の広陵右翼手。2歳のとき、広島駅前で母とともに被爆、ビルの三階から吹きおとされた。奇跡的に命をつなぐが、原爆は梶野から音の世界を奪う。沖縄戦の4回、安仁屋宗八(広島カープ)から先制打した梶野は「母から一本たのむといわれていたので……。耳が聞えないので甲子園の大歓声が気にならず、かえって幸いした」といった。補聴器をつけ、電電中国電気通信工作所で電話の整備と取組んでいる。元気だ。勢川征男(24歳、崇徳)も父を戦場にとられ母を原爆で失った。伯父夫婦に育てられるが小さいときから病弱。伯父から「くじけるな。人に負けるな」と教えられた。真夏の猛練習にもへこたれず、36年の第43回大会に一塁手として甲子園を踏む。「伯父と野球に教えられた根性と体力はだれにも負けん」。伯父の経営する室内装飾会社を背負って、毎日神戸市内を飛回っている。

 原爆症と戦った“原爆監督”は広陵の先輩森岡栄司(36歳、専修大)。首すじから胸にかけてケロイド、難聴。第46、47回大会と甲子園に乗込んだが、47回大会の県予選の前には腰にヘルニアが出、歯が9本もかけた。森岡はふらつく頭を水そうの水につけ、死にものぐるいでノックの雨を降らした。野球を通して体力の限界に挑戦し、原爆症を吹飛ばそうとした。森岡の豪気である。ほかにも広陵OB会副会長山本忠男(明大、山本鉄工所常務)、第39回大会優勝校広島商の二塁手佐々木明三(神奈川大、日立横浜)ら、多くの「原爆球児」がいる。焼け野原の中にはえた“新しい芽”といえよう。

 〈備後路〉 東部、つまり備後路の台頭は比較的新しい。この地方の雄、尾道商の進出も戦後だし、備後路から初めて甲子園へ出たのは昭和29年、第36回大会の三原だった。昭和12年の山陽大会に東部から初めて出場した尾道中のエース西浜太一(戦死)。尾道商には伝統の基本と機動性に富んだ攻めを引継ぐ林勲部長、池田善蔵監督(慶応普通部―大映スターズ)の現役コンビ。広島コーチの備前喜夫(旧姓太田垣)。ライバル校盈進からは箱田淳(元国鉄―大洋)藤井弘(広島)。福塩線で府中の根来広光(国鉄、サンケイ―阪急)北川工の高橋一三(巨人)ら。新鋭校の福山電波工からはサンケイの浅野啓司がいる。

 〈多くの人材〉 広島球界にはさすがに人材が多い。広島商で大正13年の最初の優勝投手浜井武雄(故人)、灰山元章。のちの慶応大のエース灰山は昭和4年の第15回大会で遊撃、四番、翌5年には投手、四番。連続優勝の立役者だった。東京・アート弘報業務部長。灰山を盛立てた名手に二塁手保田直次郎(広島・三和工業社長)左翼手久森忠男(広島カープ事務局長)。26年のセ・リーグ盗塁王土屋五郎(野球解説者)広島の主砲山本一義(法大)東映の大下剛史(駒大)ら。忘れられないのは戦災の広島に明るい話題を持ち帰った第36回大会の優勝監督円光寺芳光(国鉄中国支社)。

 広陵では、長年日本社会人野球協会県支部長を勤める情熱家三浦芳郎、第3回選抜大会優勝投手田岡兵一(故人)、元巨人の田部武雄(故人)。元審判で角田隆良、角谷松男(故人)、稲田茂、岩本信一(サンケイ新聞)現役の田川豊。広陵からプロ入りした選手はあげるにいとまがない。

 呉では呉港の黄金時代を築き、戦後の県高校球界をリードした柳原良助(元芸南高校長、故人)や柚木俊治(戦死)進(南海コーチ)の兄弟。藤村富美男の弟隆男(近鉄コーチ)野崎泰一(広島コーチ)に南海の国貞泰汎ら。かつての名遊撃手広岡達朗(早大―巨人、野球解説者)は呉三津田。ほかに大竹から連続五回パ・リーグの盗塁王になったイダテン広瀬叔功(南海)。また草分け期の広島中広藤省三、広島商の佐伯寅市(いずれも故人)は県球界の先駆者としておとせまい。(1968年5月22・23日掲載)

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