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和田征子さん(1943年生まれ)

 「核兵器を作ったのは人間です。そして使ったのも人間です。そうであれば、なくすことができるのも人間です」。6~7月に米ニューヨークの国連本部であった核兵器禁止条約の交渉会議。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の事務局次長、和田征子(わだまさこ)さん(73)=横浜市=がスピーチした。

 72年前、長崎市今博多町で被爆。生後22カ月だったため当時のことは覚えていないが、母から聞いた話を元に「被爆体験」を証言している。元英語教師で米国で暮らしていたこともあり、海外で証言する機会も多い。2015年には核不拡散条約(NPT)再検討会議にあわせて渡米。16年には核兵器禁止条約の前段階としてジュネーブであった国連核軍縮公開作業部会を傍聴し、スピーチもした。

 当初は、記憶がないことへのうしろめたさがあった。だが長年の被爆者の歩みを思い、先輩の被爆者が語れなくなる姿を目にするなかで、同じ被爆者として「語っていかなければならない」との思いを強めている。

 長崎に原爆が落とされた時、1歳10カ月だった。原爆はもちろん、戦時のことは覚えていない。ただ一つだけ思い出すのは、防空ずきんのピンク色の花柄もよう。「母がつくってくれたんだと思いますけど、それだけは目に焼き付いているんです」

 出征の「征」と書いて、征子。「男の子が生まれてくると思っていたみたいですよ。いかにも戦時中、といった感じの名前でしょう」と和田さん。長崎市今博多町で父母と祖父と暮らしていた。自宅は2階建ての一軒家。静かな通りに面した間口はせまく、裏庭があった。父・良雄さんは船の設計技師で、三菱長崎造船所に勤めていた。暮らしぶりは「標準的だった」(和田さん)ようだ。

 一家が暮らした今博多町にも、戦争が影を落とした。自宅の隣から川沿いまでの数十メートルは、建物を間引いて空襲時の延焼を防ぐ建物疎開の対象になり、空き地になった。近所で当時、「疎開地」と呼ばれたその場所は、現在は宮の下公園という公園になっている。

 1945年8月9日。和田さんは母と祖父と3人で自宅にいた。

 暑い日だった。朝から出ていた警戒警報は解除され、母の静子さんは昼食を準備していた。当時は米が貴重で、食事は代わりの「代用食」ばかり。カボチャや馬鈴薯(ばれいしょ)、小麦粉を湯にといた「だご汁」(「団子汁」のなまり、すいとんとも言う)などを、よく食べていたという。まだ幼い和田さんは、「お外は暑いから、おうちで遊びなさいよ」と言う静子さんの言葉を聞き、玄関の土間で一人、遊んでいた。静かな昼前だった。

 「ドーン」。そんな音を、静子さんは聞いた。金比羅山の向こう側、約3キロ北西、松山町の上空500メートルで原爆が炸裂(さくれつ)した。

 静子さんが気づいたときには、…

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