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共感呼んだ 穂洲の熱意

 〈野球に生きた飛田穂洲〉 太平洋戦争の末期、鹿島灘から茨城県勝田の軍需工場をねらった米艦隊の激烈な艦砲射撃が、のどかな大場村にも地響きをたてる。

 とある土蔵の壁に寄りそって、火の玉が飛びかうような激しい弾道を見て「これはすごいノックだ。これでは日本は負ける」とつぶやく老人がいた。飛田穂洲である。茨城の野球を語るには穂洲をおいて語ることは出来ない。

 母校水戸中(現水戸一高)は明治24年ごろから野球をはじめた。29年には水戸中―宇都宮中の対抗戦が行われた。このころの三連戦を一人で投げた名越時中(故人、元陸軍少将、水戸市長)早大野球部の草分け鈴木豊(故人)長塚順二郎(故人、長塚節の実弟)らが活躍した。

 穂洲が活躍したのは37年ごろからで、器用な方ではなかった。そのころの球友に栗田健男(元海軍中将)伊藤正徳(故人、軍事評論家)らがいた。栗田は太平洋戦争の末期レイテ海戦で敗れた栗田艦隊の長官。

 穂洲は真一文字に野球に突進んだ。早大主将を終えて読売新聞記者―早大監督となってシカゴ大に雪辱、再び朝日新聞でペンをとって40年。78歳の昭和41年1月末に世を去る。この間日本の野球を正しく導こうとする熱意とその名文は多くの人々の共感を呼んだ。後輩には明治末期の剛球大井斎、昭和27年ごろ、現水戸一高から石井連蔵(早大、朝日新聞記者)が出る。剛球投手で首位打者にもなり、のちに監督もした。このあとは玉造陽二(元西鉄)桜井薫(早大―大洋職員)ぐらい。

 〈砂押と石井〉 水戸中のライバル水戸商は大正2年に野球部が出来た。戦前は商家の子弟が多かったが、戦後、学徒出陣の砂押邦信(元立教大、日鉱日立、国鉄、山下ゴム常務)と石井藤吉郎(大昭和製紙、早大監督)が復員した。砂押は兄健治(水戸商、関東産業社長)弟正男(茨城中、立教大、富士製鉄)の野球三兄弟。邦信は立教大に復学、食糧運びをしながら練習をつづけ、卒後間もなく母校立教大の監督となる。そして水戸ッポ精神を発揮して、20年ぶりに優勝へ導く。激しいノックの明け暮れであった。そこから本屋敷綿吾(阪神)杉浦忠(南海)長島茂雄(巨人)らの俊英球児が育って行く。そのスパルタ練習が、水戸野球を象徴するかの風さえあった。

 石井藤吉郎にも父子二代の悲願がある。父の力は太田中の野球選手、練習中外野で球拾いをしていて目をササの鋭い切りあとでつく。それっきり野球をやめ、球への執着をわが子に…。その長男を日本一の選手にと、その名を関白秀吉にあやかって藤吉郎とした。大洗の荒いそ育ちはスクスクと成長した。長いシベリア抑留から解放された藤吉郎は早大に復学して神宮球場であばれ回った。立教大に進んだ山崎弘(富士製鉄)藤田繁雄(東京ガス)鈴木幸治(日鉱日立)がそれぞれ監督となった。小野秀夫(富士製鉄)は名マネジャーといわれ、豊田泰光(西鉄―サンケイ)も気骨ではヒケをとらない。

 球史のある竜ケ崎中(現一高)の根本行都(早大OB)は中央大学野球部の基礎を作った。下妻中(現一高)から初岡栄治(元国鉄、日通)下館商からは田宮謙次郎(日大、現中日コーチ)土浦中から市村要(立大OB)現一高から安藤統夫(慶大、阪神)が出ている。

 〈停滞する茨城〉 しかしこの10年来、茨城は停滞気味である。その原因を「水戸一高は進学校に変って来た。水戸商は女生徒に過半数の席をゆずり、かつての尚武の地もその気風が失われつつあり、やり抜く根性も失われがちだ」と健男の実弟栗田久成(水戸一高教諭)諸川武男(水戸商OB、茨城放送常務)らは弱くなった水戸の野球を嘆く。

 水戸ッポの激しさは、井伊大老襲撃の桜田門の変から、昭和初期における国粋主義者の台頭でも知ることが出来る。かつて北関東大会時代にあふれる若さで、千葉勢を圧しつづけた茨城勢が、いまは東関東大会で千葉におされているのを残念がる。(1968年5月9日掲載)

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