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(2002年3回戦、明徳義塾7―6常総学院)

 2002年夏、明徳義塾は圧勝を重ねて初の全国制覇にたどり着いた。全6試合のうち5試合が5点差以上。結果的に1点差で競り勝った常総学院(茨城)との3回戦が唯一の接戦だった。馬淵史郎監督は「優勝するためには絶対に越えないといけないヤマがある」と選手たちに伝えていた。それが3回戦だった。

 当時は5年連続出場中。1998年に左腕エースの寺本四郎らを擁して4強に進出したのが最高位だった。その後は3年続けて初戦を突破した上での2回戦敗退。まだ確実に上位をうかがうチームには見られていなかった。92年に星稜(石川)の松井秀喜を5打席連続敬遠したイメージが色濃く残っていた時期でもある。

 対戦する前から「事実上の決勝戦」と言われるようなカードではなかった。常総は前年春の選抜大会を制し、03年の夏の優勝校にもなるが、その年の下馬評は高くなかった。明徳の主将・森岡良介(3年)は「組み合わせ抽選の時点で意識する相手ではなかった。絶対的エースが不在で継投のイメージがあった」と振り返る。ところが、組み合ってみると強さが分かった。

 明徳は相手先発の内田博之(3年)を攻略し、二回に3得点。常総の木内幸男監督はたまらずエースの飯島秀明(2年)に継投した。右横手投げの飯島は三回に1失点した後、4イニング連続でゼロを並べた。その間に点差が詰まる。常総は七回、敵失を絡めて好機を広げ、飯島が初球をセーフティースクイズ。これで同点になった。森岡は「セーフティースクイズの対策も練っていなかったし、簡単に点を入れられた」。流れは明らかに相手のほうにあった。

 試合が大きく動いたのは八回だった。

 守る明徳にまたミスが出た。2死一、二塁から常総の6番・宮崎渓(3年)のライナー性の打球は左前へ。前進した左翼手の沖田浩之(2年)は飛びついたが、後逸してしまった。記録は2点適時三塁打になった。

 その裏の攻撃は簡単に2死となるが、敵失で走者が出た。ここで打席には身長161センチの2番・沖田。右翼ポール際にフラフラと上がった打球は、そのままスタンドに吸い込まれた。まさかの同点2ラン。馬淵監督や選手たちはベンチから乗り出して打球を見つめ、飛び上がって喜んだ。

 球場がわき上がる中で、続く森岡が打席へ。馬淵監督は後に「良介の後ろ姿を見て打つ予感があった」と語っている。ここまで飯島には2打席凡退。大会を通じて不調でもあったが、夜は宿舎の駐車場や近くの公園で素振りを続けていた。馬淵監督が付き添い、「お前が打たな、勝てんのじゃ」と励ましてくれた。

 その初球。森岡は打った瞬間にホームランを確信した。打球は右翼席中段に飛び込んだ。2者連続アーチで、一気に逆転。腕組みしながら見ていた常総の木内監督は試合後、「1本目で投手を代えておくべきだった」と悔やんだ。

 森岡にとっては「高校野球やってて一番の打球」だった。1年からレギュラーを張り、その重圧に耐えてきた。朝6時前からバットを振ることもあり、その時は後輩の沖田にも声をかけた。「沖田も下級生から試合に出ていて、その責任を感じてほしかった。うるさくも言いました」。その後輩がミスを取り返す一発を放ち、「何とかしたい気持ち」はより強かった。

 部員は約120人。後に寮も新しくなったが、当時は48人部屋が三つだった。プライベートの空間はなく、長い日は12時間練習した。卒業から何年経っても、森岡と同級生たちの話題は変わらない。「みんなで集まったら常総戦の話と、あとは寮の笑い話。いつもその二つですね」(伊藤雅哉)

     ◇

 〈もりおか・りょうすけ〉 1984年7月15日、大阪市出身。明徳義塾で4度甲子園に出場、3年夏は主将で同校初の全国制覇。ドラフト1位で中日に入団、ヤクルトでもプレーした。17年はヤクルトコーチ補佐を務めた。