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高知商・高知に新興明徳 県内「甲子園並み」の壁

 「進学校なので、計画的に人材を集めることができない……」。土佐の監督篭尾良雄(五三)は寂しそうにもらした。第三十五回大会(二十八年)に創部四年目ながら準優勝、四十一年の選抜大会も準優勝を果たして、戦後の県高校球界に君臨。攻守交代の際の全力疾走などきびきびしたプレーでも知られる文武両道校だ。全国にファンが多いが、五十一年の選抜大会を最後に、甲子園から遠ざかっている。

 地方大会参加校は二十六校で鳥取に次いで少ないのに、県内の厚い壁がどうしても破れない。ここ四年続けて2回戦敗退という、過去を知る者にとって信じられない低迷ぶり。篭尾は「ある程度やむを得ない」とその歴史的必然性を分析してくれたが、負け惜しみとは思えなかった。

 第一の理由が金属バット。体の小さい非力な部員を鍛え上げて、チームプレーでパワーに対抗していくのが、同校の昔からの伝統だった。初代監督で県高校野球の土台を作った溝淵峰男(七四)の精神重視のスパルタ教育が底にあるが、篭尾は「金属バットの普及で、きめ細かさだけではとても対抗できなくなった」と半ばあきらめ顔。

 二番目は大学野球の地位低下。土佐から早稲田、慶応など東京六大学へ進学するのが、県内有力球児のひとつの理想的ルートだった。しかし、プロ野球人気が高まるにつれて、中学生の夢は神宮から離れていく。こうなると、入学試験の難しい土佐にあえて進もうという風潮が薄れたのも、自然の成り行きかもしれない。

 それでも忘れられない選手は多い。監督生活三十年になる篭尾が「私が見た中で最高の投手」と評価する萩野友康(三七)=新日鉄=は、四十七年秋、左腕剛球エースとして慶大史上初のリーグ3連覇に貢献した。同じ慶大に進んだ玉川寿(二九)=日本石油=は、第五十七回大会(五十年)で史上二人目のサイクル安打を記録した。

 土佐が“没落”の歴史なら、対照的に、新興勢力の筆頭格は明徳義塾だろう。創部は、土佐が甲子園出場最後の年になった五十一年なのが、なんとも象徴的。高知市内から車で約一時間。太平洋の雄大な景観が印象的な横波半島の一角に位置する同校は、専用球場など恵まれた施設に加え、指導者に人を得た。戦後、高知商の黄金時代を築いた故松田昇。

 松田は「データ野球」の始祖で知られ、溝淵と並ぶ県高校球界育ての親。「三強(高知商、高知、土佐)の一角に食い込もう」の合言葉で、徹底して数値を重んじた。例えば、毎週ごとに打撃成績を集計、率の良い部員から順番に起用したりした。「理論派でした。発奮させるための一つの材料だったのでしょう」と現監督の竹内茂夫(四四)。

 しかし、現部長の武市隆(三七)は「最後の壁が厚かった。伝統の重さを感じさせられた」と苦笑いする。これは、高知商監督の谷脇一夫(四四)、高知の岡本道雄(四一)が「甲子園より県内で勝ち抜くのが難しい」と語るのと符合する。第六十一回(五十四年)の地方大会決勝は高知と対戦、九回、投手の三塁けん制悪送球でサヨナラ負け。翌年も決勝進出、高知商と対戦したが、またも九回、押し出しサヨナラ負けと、二年連続して悔やみ切れない敗戦を喫した。「いまジャンケンで勝ったら後攻をとるのは、こんな体験があるからです」と武市。

 が、壁を破ると、五十七年から三年連続選抜大会出場と華々しい。歴史が浅い割には、プロ野球界へも、河野博文(二六)=日本ハム=、横田真之(二五)=ロッテ=ら実力派を送っている。

 「それでも」と谷脇は言う。「部員はどうか知らないが、私は土佐が怖い。あのひたむきさは時として実力を超越することがある」と。岡本もそれを認める。データ野球の流れをくむ谷脇でも、弱体化したとはいえ土佐に対して自らにはない怖さを見いだすあたり、さすがに野球どころという感じがする。(1988年6月16日掲載、年号は昭和)

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