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打倒桐生が むしろ災い

 〈名物男〉桐生の名物男“トウチャン”稲川東一郎は、昨42年4月18日、伊勢崎市営球場で脳出血を起し、ユニホーム姿のまま、61歳の生涯をとじた。全国優勝の念願をいだきながら……。

 稲川は大正12年桐生中学卒業と同時に、家業をなげうって、野球一筋に生きる。ことに29年からは、自宅に野球道場を作って、主力選手と起居をともにし、家族ぐるみ指導に当る。“狂”に近い熱心さ。この間、夏の全国大会に13回、春の選抜大会に11回の出場を記録して“桐生に稲川あり”といわれるほど幅をきかした。勝負に対する執念と鋭いカンに加え、データを科学的に分析する綿密な野球が身上だった。半面勝負にこだわって奇をてらいすぎるとの非難も受けた。

 〈稲川野球〉“稲川野球”に代表される群馬球界は、東日本では、戦前かなり高い水準にあった。しかし、優勝のカベは破れず、戦後はむしろ野球の後進県に押されがち。昭和2年桐生中学が、北関東大会で初優勝したときの投手、阿部精一県高野連理事長は「稲川さんの熱心さには敬服する。が、あまりにもうま味や、策におぼれすぎ、大物になるべき選手が、大きく育たない。こまわりはきくが、荒削りの良さを失っている。だから桐生を負かすために、県下の各校が桐生を上回るうまさを持とうとして小細工に走る。力はあるが、群馬の野球が伸び悩んでいる原因だ」と分析する。一方、石原勝三郎県高野連副会長は「名物のからっ風にさいなまれ、群馬県人の体力は低かった。この体力の差が、わざわいしているのではないか」と指摘する。

 桐生が生んだ有名選手を拾うと青木正一(阪神―足利市役所)塚越源市(明大―中日スカウト)皆川定之(阪神―東急代理監督―河合楽器―同弁天島調律養成所の寮、運動場などの責任者)中村栄(阪急―国鉄―富士重工元監督)中村茂(明大―現桐生高監督)田辺義三(元西鉄)毒島章一(東映主将)らがあげられる。

 阿部が部長をしている桐生工出身選手では、木村一夫(日大―富士重工前監督)東都大学で先輩河内英真(旧名忠五)についで二人目のパーフェクト・ゲームを達成した下手投げの島津四郎(日大―熊谷組)が目を引く。

 〈開花期〉派手な桐生の陰にかくれた形だが、群馬県の野球は、前橋中学によって開花したといえる。大正14年の関東大会で、それまで茨城県の竜ケ崎中や栃木県の宇都宮中に独占されていた優勝旗を、前橋中がはじめて奪って来たからだ。翌15年から関東大会が南北に分れ、群馬県は栃木、埼玉とともに北関東大会に属した。この年の大会でも前橋中は優勝して、見事甲子園に進出した。そして史上に輝く前橋中―静岡中の19回延長戦が演じられた。当時の捕手だった片桐勝司東京六大学野球連盟理事(東大出)は、次のように述懐する。

 「まず予選から大変だった。宇都宮中との決勝の時、私が落球したということで大混乱。私たちは警察官に守られて宿舎に引揚げる始末。宇中の棄権で優勝は決ったが、翌日の優勝旗授与はなんと小山駅だった。甲子園での静岡中との延長戦は、19回裏、静岡が二死から四球、安打と続き、福島が中前安打、返球を丸橋がリレーしたが、間に合わず、私も落球してあっけない幕切れでした。終ったと思ったら、精も根も尽きはてて、私はホームベースの上にうつぶせになってしまった」。

 〈無欲の尊さ〉また現在前橋市内でふとん屋を営んでいる丸橋仁主将は「淡々と無欲で投げたのがよかったのでしょう。人生における無欲の尊さを学んだ」と当時を思い出して語る。丸橋は横浜高商に進み、高専大会での横浜高商黄金時代を作った。

 戦後前橋からは昨年のセ・リーグの首位打者中暁生(中日)が出ている。プロ入り13年目で見事栄冠をつかんだ。宮田征典(日大―巨人)新井竜郎(日大―大映―大洋―電電信越監督)もここで学んだ。

 このほか群馬の生んだ好選手として、三輪八郎(高崎中―阪神―戦病死)古島誠治(高崎商―立教大―戦病死)吉田治雄(高崎高―東大―東映事業部長)らがいる。(1968年4月20日掲載、年号は昭和)

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