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(1998年2回戦 宇部商2―3豊田大谷)

 宇部商の藤田修平(2年)が、豊田大谷の持田泰樹(3年)を1ボール2ストライクと追い込んだ。1998年8月16日、2―2で迎えた延長十五回無死満塁。藤田は「三振を取ろうと思った」。

 内角に直球を投げようと思っていたところ、捕手の上本達之(3年)からもう一度サイン。投球モーションに入っていた藤田は動作をやめ、確認するように捕手の手元をのぞき込んだ。直後、球審の林清一が豊田大谷の三塁走者を手招く。藤田は「頭が真っ白になった」。ボークの判定だった。豊田大谷が勝ち越し、3時間52分の熱戦はサヨナラで終わった。約5万人が詰めかけていた真夏の甲子園。マウンド上の藤田の視線は左右に泳ぎ、落ちた。

 普段はあまり使わない作戦が誤算を招いた。宇部商は、二塁に走者を背負ったとき、相手打者にサインが伝わっていると感じていた。そのため捕手の上本が複数回サインを出してから投げる球を決めていた。一回からコースを丁寧に突き、マウンドを守り続けてきた藤田はすでに210球。未知の球数だった。2年生左腕は、サインが複数回出される動作に対応できなくなっていたのだ。「疲れだったのか。(ボークの)理由はわからない。3年生に申し訳ない」と語る。

 宿舎に帰ると、「全身がしびれているような感じになって、身動きがとれなかった。緊張の糸が切れたようになった」。身長172センチ、体重60キロにも満たなかった細身の体は疲労困憊(ひろうこんぱい)だった。

 その後、ボークの場面を映像で見直した。そうしたなか、球審の林へある思いを抱くようになる。「明らかにボーク。100%、僕が悪かった。すごい暑かったなか、ちょっとした動作を見逃さなかったのがすごいと思った」。それから、「なんであそこでボークを取るんだと批判された」と林が話す記事を目にした。「僕が悪いことをしたのに。申し訳なくなった。会えるならば、すぐに会いたかった」

 再会の機会は訪れる。2013年7月、明大で開かれた高校野球を振り返るイベントにともに招かれた。藤田は林に「僕は今でも元気に野球をやっています。山口から来ました」と伝えた。林は「感無量」と応え、涙ぐんだという。ボークから約15年。藤田は「やっとお互い肩の荷が下りたような感じだったと思う。言葉では難しいが、2人しかわからないような(感覚)。来てよかったなとすごく思った」と柔らかな表情をのぞかせる。

 イベント後の控室でも、2人は話した。当時の試合について、林から「あそこでボークを取っていなかったら、私は審判を辞めていました」と明かされた。その覚悟を聞き、藤田は「すごい人にジャッジしてもらっていたんだなと改めて気づいた」。

 あの豊田大谷戦とは何だったのか。約20年を経て、藤田は言葉を選びながら語る。「今までの人生のなかで一番の出来事なのは間違いない。今となっては悪い思い出ではない」。そしてこう続ける。「知らない人も含めて声をかけてくれる人がいっぱいいたので、また甲子園に行きたいという思いが強くなった。それまでは与えられたことしかやっていなかったが、自分で考えて練習するようにもなった」

 1年後の夏は、山口大会の準々決勝で敗退。再び甲子園の土を踏むことはなかった。進学した福岡大、就職した山口県下関市の製錬会社でも野球を続けた。今は草野球を楽しむ一方で、小学生の長男の少年野球チームを手伝っている。

 もし自分と同じように、ミスで試合を終わらせてしまった選手がいたら、どう声をかけるのか。「高校球児には甲子園にいく目標がある。目標に向かって頑張ること自体がすごい」と。その甲子園で思わぬ経験をした。36歳になった藤田はそれでも「この年になっても、もう1回投げてみたい」。胸が躍る場所は、変わらない。(堤之剛)

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 ふじた・しゅうへい 1981年、山口県宇部市出身。小学3年から野球を始めた。80回全国選手権に出場。現在は宇部市内で実家の内装業を手伝う。

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