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競う三地区 穂洲の流れ

 〈センゴロイワシの浜辺から〉 十勝沖地震でいちばんひどい被害を受けた八戸市。日本一の水揚げ量を誇るサカナの町は、県を代表する野球兄弟を生んだ。大下常吉(70)健一(58)。網元のせがれで、ともに八戸中から早大へ進んだ。

 東京六大学で首位打者(大正11年春)、のちに早大のオニ監督となった外野手・常吉は“負けん気”がユニホームを着たような豪傑である。162センチの小柄だが、米俵を運べば漁師も恐れ入る腕っぷし。中学時代は相撲と柔道で鳴らした。野球のほうは、海や川での石投げできたえた程度。その少年を、人あって早大へ推した。

 「早稲田に来たときは、一個の外野飛球もつかめなかった。これが将来の強打者になろうとは……、その間の努力は言語を絶した」と当時の監督・飛田穂洲は書いた。そして当人も「投げる球が速くて見えねェ。東京サ来なけりゃ良がったな、と思ったが、戻るのもシャクだ。よし、ひとの三倍ケイコしよう、死ぬか、上手になるか、どっちかだと考えたスよ」と語る。

 「私は才能がない。だから、今のプレー、良がったなア、どうして、ああ、いぐんだべな、と他人のマネして、キジガイみたいにくりかえしたら、筋肉の習慣になったスよ」

 監督になっては「バットは武士の刀と同じだ。他人に運ばせたりしてはならん」と叫び「一試合には九つストライクがくる。このうち三つくらい打てんことがあるかア」とシゴいた。

 戦後は母校を指導して甲子園に出場させたが、いま糖尿病から両眼を病む。だが意気は軒高、穂洲ゆずりの精神野球を説き、長島の守備を論じて、尽きることがない。

 弟・健一は、浜でセンゴロ(背黒)イワシをつまみ食いしながら育った巨漢。八戸中で大正15年から三回も甲子園を踏み、東北一の剛球とホマレ高い左腕投手だった。昭和6年、兄が監督の早大に進み、主将として渡米もした。いま東京で紙工所を営み、「県全体の貧しさ、家庭の無理解、練習期間の短さ、いい試合が見られぬこと」を青森の欠点と指摘する。

 〈エビ茶色の流れ〉 大下兄弟によって八戸市が花ひらき、昭和初期の県を代表したあとは、青森勢(師範、中学=高校)の天下となる。昭和13年から26年にかけ、四回の甲子園行きを独占した。ところが昭和33年に初出場した東奥義塾が、すでに三回目。いまや弘前時代の感じがつよい。

 八戸、青森、弘前――県内の三拠点であり、ライバルでもある。それが順ぐりに県野球を制してきたのは面白い。南部藩の八戸が、海をひかえて豪快、開放的な大下型の野球なら、リンゴ日本一の津軽藩(弘前、青森)は温和で綿密なカラー。「貴重な左腕なのに、人柄がオトナシすぎて……」といわれる渋谷誠司投手(弘前商―サンケイ)あたりが見本だろうか。

 だが、三地区を代表する八戸高、青森高、東奥義塾は、そろってエビ茶、つまりワセダ色のストッキングをはく。八戸はむろん大下兄弟の線だが、青森高は戦前に久慈次郎、飛田穂洲らをコーチに招いた縁から。東奥義塾は、大下を頼って早大入りした先輩兼コーチ・鬼川正(秋田県田沢湖町教育長)の発案という。つまり、すべて穂洲の流れをくんでいるのだ。

 そして少年小説「あゝ玉杯に花うけて」で、戦前の子どもに“タマシイの野球”を吹きこんだ佐藤紅緑(サトウハチローの父)は弘前中出。穂洲の親友で、夏の大会を見るために甲子園へ引越し、40歳にして草野球をはじめた。あっぱれ、エビ茶派の巨頭といえよう。

 〈あの顔この顔〉 こういう伝統のおかげかどうか、プロにはほとんど人がない。渋谷のほか三浦方義(五戸高―東京コーチ)中島惇一(八戸高―元西鉄)。アマでは、草分け時代に青森師範を甲子園へ導いた速球投手・鹿内三千夫が青森市浦町小学校長。青森商―立教大でバッテリーを組んだ石田栄雄(自営)、成田喜代治(戦死)。そして東奥義塾からハワイ遠征軍に選ばれた小笠原一(日大―富士鉄)前田啓一(青森銀行)清藤昭一(電電)も記憶に残る。

 変り種では元横綱栃ノ海こと、花田茂広が弘前商の左翼手。腕力と柔らかな身のこなしは当時から目立った。また近鉄ラグビーのFWで、全日本の一員、小笠原博も弘前実では投手。転進して立派に身を立てた二人、津軽のジョッパリ(強情っ張り)を地でいったくちである。(1968年6月6日掲載)

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