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「PL勢」10球団に24人 一球の“怖さ”教え込む

 プロ野球名鑑を見るまでもなく、最近の出身校ランクはPL学園が群を抜いている。コーチに中塚政幸(四二)、福島久晃(四一)=ともに大洋、得津高宏(四一)=ロッテ、新美敏(三五)=広島。現役選手では、今シーズン入団の立浪和義(一八)、山中勝己(二二)=ともに中日、橋本清(一九)=巨人、野村弘(一八)=大洋、若井基安(二四)=南海、加藤正樹(二二)=近鉄=をはじめ、清原和博(二〇)、行沢久隆(三四)=ともに西武、西川佳明(二四)、森浩之(二三)=ともに南海、岡部明一(二五)=ロッテ、新井宏昌(三六)=近鉄、桑田真澄(二〇)、吉村禎章(二五)=ともに巨人、米村明(二八)=中日、金石昭人(二七)、山中潔(二六)、小早川毅彦(二六)、阿部慶二(二七)、西田真二(二七)=いずれも広島、尾花高夫(三〇)、霜村英昭(一九)=ともにヤクルト、金森永時(三一)、木戸克彦(二七)=ともに阪神=の十球団、二十四人を数える。昨年2000本安打を達成した加藤英司(四〇)は、今年から同校OBで初の野球解説者となった。「PLはプロ予備軍」のやっかみ半分の声が出るのも不思議でない人数である。

 PL学園は昭和三十年、全国へ布教活動に出かける教団職員の子弟のために全寮制の高校としてスタートした。野球好きな二代教祖・御木徳近氏の発案で「学園に活気を」と野球部が作られた。一期生として東京・戸山高から転校した井元俊秀(五一)=元PL監督、現教団職員=は「教団軟式野球場の跡地を譲り受けたが、泥地のでこぼこだらけで投打の練習よりも、整地時間の方が多かった」という。大阪大会初参加の三十一年夏、初戦は池田に7―5で辛勝したものの、3回戦で泉大津に0―10で大敗した。「PLは打席に入るたび相手投手に『お願いします』ぺこりとあいさつする初々しいチーム」と、当時の新聞に書かれている。まさか六年後にひのき舞台の甲子園へ、そして二十二年後に全国制覇をとげようとは、だれも予想できなかったようだ。

 最初の卒業生である井元が監督就任して二年目の第四十四回大会(三十七年)に初の甲子園へ。堀川克義(四三)=現姓中沢=自営、今井重信(四三)=自営、戸田善紀(四二)=元阪急=の三投手と長打力を看板にしての出場だった。結果は2回戦で日大三(東京)に2―5で敗退。この試合で二年生ながら先発した戸田は、翌年の選抜大会の首里(沖縄)戦で21奪三振の大会記録を作った。同じ二年生だった中塚一塁手は「当時からPLは一定のワクにはめず伸び伸び育ててくれた」と、将来につながる指導法だったことを認める。

 第六十回大会(五十三年)の「奇跡の逆転優勝」は、PL選手が胸のお守りに手を当てては快打を連発して話題となった。西田―木戸のバッテリーで、金石もこの時ベンチに入っていた。準決勝の中京(愛知)戦では、0―4から九回に追いついて十二回にサヨナラ勝ち。次の決勝でも最終回に西田、柳川明弘(二七)=本田技研=の連続二塁打で逆転するという神がかり的な底力を見せた。ベンチを指揮していた鶴岡泰監督(四二)=現姓山本、大産大高監督=は「信じられないような試合だったが、開き直って欲を出さなかったのが集中力につながったのだろう。それと、二年前の決勝で桜美林(西東京)にサヨナラ負けした悔しさ、一球の怖さを心に刻み込んで練習したのがよかった」と当時を振り返る。

 快挙を成し遂げた鶴岡は二年後にPLを去り、新設校の指導に乗り出す。以後、八年間に古巣のPLと七度対戦したが、まだ勝ち星があげられない。鶴岡のもとで五年間コーチをしていた中村順司(四一)がバトンを受け、PLの黄金期を作りあげていく。井元―鶴岡―中村三監督に共通しているのは「野球は自己表現の一つである」ということ。強制より自主に重点をおいて指導している。(1988年6月7日掲載。年号は昭和)

県外選手から大阪育ち PL気質も変わる時期

 昭和三十七年一月八日。十人の中学生が別府港から大阪に向かった。九州各地から選ばれた選手たちで、その中に福岡・中間北中からPL中に転校した中村順司がいた。「PLといっても、まだ有名じゃなかった学校だったが、大阪で野球が出来るといううれしさと、未知への不安が入り交じった複雑な気持ちで出港したのを覚えている」。あかね色に染まった夕空を見ながら、少年たちはそれぞれの思いを胸に秘めていたようだ。宮崎県の延岡・岡富中からやってきた森永悦弘(四二)=ヤマハスポーツ=もその一人。「各県の投手、四番打者ばかりが十人も転校したのですから、競争意識は高かった。でも、その中で中村は周囲を見て、まとめていく力を持っていた」という。

 小柄な中村は堅実な守りと、強肩、足の速さ、試合の流れを見極める能力を買われて二年生から内野手に。甲子園へは三十八年の選抜大会で三塁を守った。名古屋商大―キャタピラ三菱を経て五十一年母校のコーチに。監督就任三年目にPLとしては二度目の全国制覇を飾る。エース桑田と四番清原が一年生の時である。当時(第六十五回大会=五十八年)は池田(徳島)がめっぽう強く、前年の夏から春、夏と3連勝を狙っていた。その池田と準決勝で対戦。中村は、実力では相当な開きがあると知りながら、前夜のミーティングでは「力の差は四分六分だ。この差を縮めるのはお前たちの気力しかない。思い切ったプレーを見せれば活路は開ける」とはっぱをかけた。結果はPL打線が好投手・水野雄仁(二二)=巨人=に3本塁打を含む9安打を浴びせて7―0の大勝。その勢いで決勝の横浜商(神奈川)をも3―0で破った。

 選手層の厚いPLで入学早々の一年生二人を投、打の軸にしたこの中村構想は、大阪大会直前まで内部で論議を呼んだ。同レベルなら上級生を優先するのが不文律のようになっていたのを「際立った将来性」を買って、あえて一年生を起用したわけだ。こうと決めれば、信念を曲げない頑固さ。兄の俊介(四七)も「筑豊育ちの川筋男の大胆さと、浪速の読みの深さがミックスされたのかも」と見る。

 一年生コンビもまたこの抜てきにこたえた。二年後の第六十七回大会(六十年)は圧巻だった。決勝までの5試合で、清原の5本塁打を含む10本塁打。チーム通算打率4割1厘、1試合最多得点の29、最多安打の32本など、数多くの新記録を添えて三度目の全国制覇を達成した。さらに、チーム力が低下したと思われた翌々年の第六十九回大会では、野村、橋本、岩崎充宏(一八)=青学大=とタイプの異なる三投手を育て、立浪、片岡篤史(一八)=同大、深瀬猛(一九)=専大=らの打力と機動力で前年とは違った「鉄壁野球」でまた頂点に立った。おそらく中村監督「会心の作」だったろうに、本人は「運がよかっただけ。チームの構成は年によって違うから、そのときどきに合った特徴を出すことに心を配っている」とさりげない。しかし、桑田は「精神面では礼儀正しさ、技術的には基本に忠実だった。だからPL出はプロに入っても大崩れしないのでは」と中村監督に感謝する。

 かつては九割近くいた県外選手も、今は八割が大阪育ち。「もう野球だけしていたらよい時代は過ぎた。よき社会人になれるかどうかが大切だ。だから、私の指導の良しあしがわかるのは、二、三十年先のことでしょう」。そして、PLのOBにもこんな投手がいると、池内雄一郎(三二)=宮崎県・田中病院=の名を教えてくれた。苦学して看護士の資格を取り、患者の面倒を見ながら軟式野球に親しむ池内は、五年前の、全日本選手権で延長四十五回、8時間19分、522球を一人で投げ抜いた。このがんばり記録は、いまもギネスブックに残されている。(1988年6月8日掲載。年号は昭和)

興国が歓喜の初出場V 再起めざす北陽と浪商

 「このうれしさは、たとえようがない」。青鬼の源さんは第五十回大会(四十三年)で初出場初優勝し、歓喜の胴上げを味わったあと声をつまらせた。そして「オイ、陰のカントクはどこへ行った」と、ベンチ横のスタンドに目をやった。その時、マネジャーの宮崎英一(三八)=KK珍味の本鯛=は、興国1―0静岡商の報告を母校に知らせるため、スタンド下の公衆電話にかじりついていた。「丸山が5試合目の完封したんですよ」。わが事のように、目を輝かせて話す彼の胸中には長い間持ち続けていた屈辱感はもう消えていた。

 宮崎は大阪・花乃井中から、丸山朗(三七)=大昭和製紙=とともに興国へ入学、内野手として甲子園を目指した。ところが、一年生の夏を過ぎたとき「マネジャー役」を言い渡された。一時は退部も考えたが、青鬼監督から「皆のまとめ役、陰で支える人間が必要だ」とさとされ、裏方に徹することにした。

 大会前の合宿では、午前三時に起きて監督の奥さんと全員の朝食を作ったり、調子の悪い選手を励ましたり。同じ内野手だった丸山は投手に抜てきされたが、三年生の夏前まで「投げれば打たれる」の連続だった。「丸山よ、お前このままではダメになるぞ。もっと気合を入れて練習しろよ」。ミーティングの席で宮崎はわざと語気を強めてエースをしかった。もちろん、これは監督の入れ知恵だった。一日、300球の投球練習をする丸山の目の色が変わってきた。

 投打にまとまりがあるというだけで、そう力のあるチームではなかった興国なのに、甲子園では試合ごとに強くなった。「守りを固め、相手のスキをうまくつく試合運びは典型的な浪速野球。丸山の踏んばりとベンチの的確なさい配が勝因でした」と、宮崎は陰のカントクらしい分析をした。決勝までの6試合を1点に抑えた丸山は、早大で主将、いま大昭和製紙の投手コーチ。一度も下級生に手を上げず、宮崎と一緒に自由な雰囲気をかもし出した樽本英一主将(三七)=元デュプロ印刷=は、社会人野球でも活躍、益川満育(三七)はヤクルトで、二年生の岡本一光(三六)は阪急時代に代打などで名を上げた。本気で選手をしかりつけながら、子どもたちに愛された青鬼の源さんこと、村井保雄(五三)は今も監督を続けており、年に一度、宮崎が招集する「V1記念会」を楽しみにしている。

 興国の村井が三十一年間の監督生活なら、高知―近大から北陽の教諭となった松岡英孝(五〇)は二十九目を迎える。この間、夏四回、春五回の甲子園出場。その松岡は「金属製バットの影響で、力が優先され、高校野球の味わいが薄れつつある」と嘆く。勝てなくなったためではない、と断りながら「頭、技、力が三等分されてこそ面白いのに、いまは力が6割以上を占めている。(金属製バットの可否を)考え直す時期にきているのでは?」。松岡の教え子には長崎啓二(三七)=元阪神、慶元秀章(三二)=近鉄、岡田彰布(三〇)=阪神、高木宣宏(二五)=広島=らがいる。

 大阪といえば、第五十回大会まで十二回出場、二度全国制覇した浪華商(現浪商)が代表格だった。が、それ以後はPL、明星、興国、春日丘、泉州に押され、甲子園に姿を見せたのは第六十一回大会(五十四年)だけ。牛島和彦(二七)=ロッテ、香川伸行(二六)=南海=のバッテリーで準決勝まで進出したが、四国の強豪・池田(徳島)に0―2で敗れた。六十三年から浪商は和歌山県境に近い泉南郡熊取町に移転、一、二年生の新チームが再起をはかっている。同校で二十年間指導した広瀬吉治監督(五八)は、茨木の旧校舎に残った三年生チームを率いて、最後の夏に挑む。(1988年6月9日掲載。年号は昭和)

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