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九州学院に熊本工続き 強打「火の国」伝統築く

「期待にこたえろ」――五十二年夏。熊本駅に掲げられた垂れ幕に、きつい調子の言葉でゲキが出た。代表になった熊本工のエース・林田孝史(二八)=NTT熊本=は、今でもこの言葉を忘れない。「こりゃあ、1勝しないと熊本に帰ってこれないぞ、と本当に思いました」

 熱しやすく、冷めやすい。三十九年から五十八年まで県高野連理事長だった臼杵喝三郎(六一)=鎮西高教諭=は「藤崎宮の大祭を見ればわかる。ワァーッと燃えて、終わればスーッと引く。碁でも、四すみの一カ所でも勝てば、全体で負けてもそれだけで喜ぶ。そんな県民性が野球にも出ている」という。熊本は日本の野球発祥の地という説もあるほど、歴史は古い。それだけに熱狂的。垂れ幕のゲキは、県民性と当時の状況が重なりあって生まれた。

 中九州大会では大分勢に負け続けた。第四十七回大会(四十年)から、記念大会を除いて8連敗。甲子園で勝つどころか、出ることさえ難しかった。九州学院が第五十七回(五十年)で連敗にストップをかけた。

 林田は三季続けて甲子園のマウンドを踏んだ。第五十八回大会(五十一年)では、今治西に十一回、一死満塁でスクイズを決められ、無念の涙を飲んだ。ついで翌年の選抜大会では、九回一死満塁のサヨナラ機に林田が一ゴロ、十二回に1点取られてまた初戦敗退。悲壮な覚悟をもって臨んだ第五十九回大会で、待望の白星を挙げる。

 初戦の2回戦で海星(三重)を6―4で下した時、最後の打者をアウトにとると林田の口元がほころんだ。「喜びより、ほっとした。マウンド上で笑ったのは、あの時一度だけですよ」。悲願の1勝は、熊本工にとって選手権大会では三十八年ぶり、県にとっても十四年ぶりの勝利だった。3回戦は福島商に十一回サヨナラ勝ちし、一気に準々決勝へこまを進めた。

 当時、熊本工を率いていたのは八浪知行(五七)=熊本県議。「暗示を与えるのがうまかった監督。ここはお前しかいない、とね」と臼杵はいう。そんな熱血漢が「林田は気位を持っていた。自分で自分の戦いができた。ほかの選手は私に引きずられてやったが、林田は別」と評する。攻めはいいが、守りが弱い。あきらめが早く、粘りがない、といった熊本野球の殻を、林田の出現で打ち破った。

 五十年代から熊本の高校野球は変化した。三十六年から審判を務め、藤崎台球場の前場長でもある上田正明(六二)=同球場嘱託=はいう。「粗っぽさ、豪快さがなくなった。バントを絶対にしない監督もいたが、もうそういう時代ではない。甲子園野球に近付いたのでは」。数多くのプロ野球を輩出しているが、大成した投手はあまりいなかった。が、現在活躍中の選手の中に、ちらほらと県出身投手の名前が見える。山内孝徳(三二)=鎮西―南海=、園川一美(二五)、右田一彦(二八)=ともに九州学院―ロッテ=、遠山昭治(二一)=八代一―阪神=らだ。

 だが、上田が近年で最も印象に残る試合は、第六十二回大会(五十五年)の熊本大会決勝の八代―熊本工。六回、八代は秋山幸二(二六)が先制本塁打すると、熊本工は七回に伊藤勤(二六)が2点本塁打を打ち返した。結局、熊本工に凱歌(がいか)があがったが、この二人が現在、西武の主力に成長している。やはり、「強打・熊本」の印象はまだ残る。

 そういえば選手権大会で記念となる本塁打は、熊本勢が続けて記録した。大会通算500号は、第六十六回大会(五十九年)で、準決勝まで進出した鎮西の丸田洋史(二一)=九産大=が、準々決勝の岡山南戦で左翼に打ち込んだ。その前の400号は、第六十四回大会(五十七年)で、熊本工の平畠光行(二二)=本田技研熊本=が打った。

 この2本のアーチも、豪快さを求めた「火の国野球」のなごりなのかもしれない。(敬称略)

(1988年4月28日大阪本社版掲載、年号は昭和)

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