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かつて嶺南、いまや嶺北 福井商などが七年連続

 ひとつのトンネルが白球地図を変えた。三十七年開通の北陸トンネル(13・869キロ)だ。

 地図で見ると、福井県はヒョウタンを逆さに傾けたような形をしている。くびれ部分が木の芽峠。峠を境に、北に広がる膨みを嶺北、南を嶺南と呼ぶ。開通当時は長さ日本一、世界で五番目に入ったトンネルは、このくびれをぶちぬいた。戦前から甲子園行きをほぼ独占してきた「嶺南野球」。その代表的な敦賀商(現敦賀)、若狭がかげり、代わって北の福井商が台頭するきっかけになった。

 福井商の北野尚文監督(四二)は、強かったかつての嶺南への留学組だ。嶺北・吉田郡出身。「甲子園へ行くなら敦賀」を選んだ。入学の三十六年、北陸線はまだ峠の北を通っていた。列車は後押しの機関車をつけ、急坂を後退してはまたはずみをつけて上るスイッチバック式。「汽笛を合図に窓を閉めた。それでも鼻から口の中まで真っ黒になった」。ぬけたと思うと入るトンネルは十一。煙で失神する機関士が、年に一人や二人は出た難所だった。

 おかげで嶺南と嶺北の野球交流は年にせいぜい一回ほど。嶺南勢は専ら京阪神の強いチームを相手にした。閉ざされた北は富山や石川の雪国勢と。敦賀に留学した北野だが、三年の夏は県大会決勝で若狭に敗れ、甲子園の夢を断たれた。竜大を出て四十三年、北へ帰った。

 すでに真新しいトンネルが開通していた。校長としてまもなく赴任してきた一瀬繁治(七四)が面白い。嶺南出身というのに「へき地(嶺南)にばかり勝たしてたらアカン」とゲキを飛ばした。県都・福井市がある嶺北は、八十二万人の県人口のうち、約六十万人を抱えている。

 北野の猛特訓が始まる。京都(平安)、三重(明野)、愛知(中京、東邦)。トンネルが生かされ、強豪チームとの練習試合が日を追って増える。と同時に、部員のセンス、個性、欠点を根気よく見極める。“選球眼”を磨いた。「130キロで投げる投手が入ってくるわけでなし、みんな体も小さい。一人ひとりの指導のツボを探りあてるしかない」

 四十六年に初の選抜出場。第五十五回大会(四十八年)に戦後初の代表。さらに五十三年、主将の竹内正美(二八)=北陸電力勤務=を中心に強打のチームづくりに成功、同年の選抜大会で北陸路へ初の準優勝旗をもたらした。ここに来て立場は逆転した。同校の甲子園出場は五十三年以降、夏七度、春五度。私立の北陸、福井を含めると、嶺北勢の選手権大会出場は昨年までで七年連続に及ぶ。

 南の若狭・領家亮一・野球部顧問(四七)はいう。「やはり人口。ぼくらが子供のころ、あこがれの甲子園は、ラジオに耳を澄ませ、ひたすら想像してみる遠い球場だった。メディアの発達した現在、子供の野球も県下一円に広がった。地理的な不利が無くなれば、あとは底辺の厚さがものをいう」

 第五十一回大会(四十四年)以来、選手権出場を断たれている若狭。同校のある小浜市の庁舎にはいま、「北陸新幹線若狭ルートの実現を」の横断幕がかかる。そして敦賀市議会は昨年十二月、夏の県大会を敦賀でも行うよう要望する決議案を全会一致で可決した。

 第五十三回大会(四十六年)ですい星のように躍り出た美方も特筆される。ボートで有名だが、ときに開校三年目。「卒業生も出していない県立校が」と騒がれた。そして第五十六回大会(四十九年)と第五十七回大会(五十年)に連続出場した三国。越前ガニ本場の漁師町は昨年の暮れ以来、乱獲がたたっての禁漁問題で大揺れだ。

 福井商のある福井市は繊維産業が円高不況にあえぎ、このところ織機の共同廃棄、転廃業が相次いでいる。アジアNICS(新興工業国・地域郡)からの集中豪雨的輸入に押されてきた市民の励みは、いまや野球で新興の福井商だ。「夏の甲子園で2勝の壁をまず破ること。そして優勝を夢みている」。静かに北野はいった。(敬称略)

(1988年6月3日掲載、年号は昭和)

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